乗務員の武器やペリー艦隊を知る史料

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ページ番号 C1042677  更新日  令和5年3月31日

乗務員の武器やペリー艦隊を知る史料

2017年3月9日(木曜日)

乗務員の武器やペリー艦隊を知る史料

右の方は当時身につけていたサーベルなどが描かれています。 下の方には小さな船があります。
大きな黒船から陸に上がる時にはこういう小さなボートでやって来たのかもしれないですね。

そして、左の大きな船が黒船です。
色が付いていませんが、船体はコールタールを塗って真っ黒だったのだそうです。
ですから、黒船というふうに呼ばれています。

真ん中に水車のようなものがあり、石炭を燃やして船を進めていくのです。
「蒸気船の長さ四十五間」と書いてありますから、およそ80メートルの大きな船です。
この船には500人くらいの人が乗っていたと書いてあります。
真ん中には煙突があり、もくもくと煙が出てます。
その左のところに「大将の之営」と書いてありますから、
きっとペリーはこの辺りにいたんでしょうね。
そして、色んな指示を出していたのかもしれません。

蒸気船は石炭で走りますが、太平洋の真ん中で石炭が切れては困るので、帆船にもなるそうです。
必要な時には帆船蒸気船で走り、風がある時には帆船で走っていく、というようなこともあったようです。
四隻で来ましたが、全部蒸気船ではなく、二隻が蒸気船、二隻は帆船でした。

ペリーは本当はもっと大きい艦隊、七隻くらいの大艦隊で来たかったそうなのですが、
アメリカも予算の都合があるのでしょうか、四隻しか出せないということで、
渋々、四隻の船で日本まで来たとか。

では何のために日本に来たのかというと・・・
当時アメリカは捕鯨を一つの生産手段としていて、
その捕鯨船の食料食糧、燃料、それからその乗務員の救助等々を頼む目的で来ていました。
そして、中国との貿易をする中継ぎ貿易。
アメリカから日本経由で中国に行ったほうが、石炭にしろ食料食糧にしろ、
色んなものが便利ですから、そういう中継地として仲良くしようよということが、
開港の一つの理由だったそうです。

詳細は文献史学の動画をチェック!

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