ペリーが来た時の情報を知る術とは?
ペリーが来た時の情報を知る術とは?
2017年3月13日(月曜日)
藤間柳庵(とうまりゅうあん)の残した史料によると
「自是(これより)以下他聞を記(き)せり。」・・・
この以下の状況は井伊掃部頭がいた、松平何某がいた、
そういう状況は後で誰かからのメモを記したのかもしれないですし、
当時こういう瓦版が出ていたのかもしれません。
ペリーが日本へ来た嘉永6年(1853年)の様子は、今でいう新聞記事を写したり、
テレビの情報を写したりということで、多くの情報を得ることができたようですね。
「合衆国大統領より、日本国将軍宛て書翰」や「伯理爾天徳(プレジデント)」・・・
と記載があり、もうこの頃には「合衆国」「プレジデント」と言う単語も既に使われていたようです。
当時のこういう情報網というものは大変素晴らしくて、どんどん中枢の人の耳には入ってくるのです。
瓦版か何かで出回ったのでしょう。
アメリカ大統領宛の書簡(和解・日本語訳)がいわゆる庶民でも見たり読めたという状況があったんですね。
当時の人は十分その状況を知り得る環境にはあったのかなと、そんなふうに思っています。
詳細は文献史学の動画をチェック!
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