心のバリアフリー講演会 テキスト版

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ページ番号 C1061870  更新日  令和7年3月28日

心のバリアフリー講演会 テキスト版 講演会タイトル「一歩踏み出す勇気、心のバリアフリーが社会を変える!」

講師

中嶋 涼子氏

(職業、車いすインフルエンサー)

障がい者の常識をぶち壊し、日本の社会や日本人の心をバリアフリーにするため、テレビ出演、YouTube制作、講演活動など様々な分野で活躍中
 

日時

令和7年2月6日(木曜日)開催、

講演内容


本日は皆様、ご足労いただきありがとうございます。
私は、人に迷惑をかけてはいけないって、ずっと車椅子になってから思ってたんです。
だけど、いろんな経験をして、いろんな出会いがあったことで、今年で車椅子になって29年目のベテランなんですが、もはやその迷惑をかけちゃいけないっていう気持ちが、すごく変わっていったんです。それこそ、心のバリアフリーだと思ってるんですけど、どうやって、私の考え方が変わっていったか、どうやって障がいを、受け入れられたか、そんな話を、今日はざっくばらんにしたいと思うので、皆さんお気軽に聞いてください。とりあえず、いっぱい笑ってください、よろしくお願いします。

ということで、中嶋涼子、職業、くるまいすインフルエンサーとして、7年ぐらいお仕事をさせてもらってます。よかったら皆さん、私のYouTubeだったり、Instagram、SNSへのフォローを、今すぐよろしくお願いいたします。
今日150人の来場者がいらっしゃるということなので、150人の登録者が増えると信じているので、皆さん、ぜひフォローしていただけるように、よろしくお願いいたします。

(スクリーンに、中嶋氏が、Youtubeやテレビ、ラジオで活動している写真が写る。)
ということで、お話始めさせていただきますが、くるまいすインフルエンサーって何をしてるんですか、とよく、いろんな方に聞かれるんです。
どんなお仕事をしてるかといいますと、主な活動は、今言いましたYouTube、「中嶋涼子の車椅子ですが何か?!」っていうチャンネルだったりとか、あとは、時々テレビだったり、ラジオに出演させてもらって、車椅子ユーザーとしての意見をお話する、コメンテーターなどをやらせてもらったりしています。
あと、私が一番好きなお仕事は、今日のような講演会です。全国いろんな場所へ行って、いろんな人の前で大体約1時間ぐらいなんですけど、自分の話をすることで、障がい者や、車椅子に対してのイメージを変えたいと思っています。皆さんも、もしかしたら、障がい者や、車椅子に対して、ちょっとネガティブなイメージとか、自分とは関係ない、って思ってる方もいっぱいいると思うんです。でも今日のお話を聞いたことで、意外と車椅子の人って、あんまり自分と変わらないんだなとか、もっとポジティブなイメージ、身近な存在に、感じてもらえるといいなと思って、そんなお話を、全国津々浦々でやらせてもらっています。

ちなみに最初に話が戻りますが、インフルエンサーっていう言葉、私は、7年前に知ったんです。よく最近インフルエンサーって聞くと思うんですけど、一体何なの?って思うじゃないですか。何なの?みんな言ってるけど、って思うと、思うんです。
私、7年前までは普通の会社員をしてたんですけど、その時に、車椅子で、障がい者で、すごく生きづらさを感じてたんですね。みんなと自分が違うことで、すごく生きづらいな、でもどうにか社会を変えていきたいなって、もんもんとしてたときに、たまたまネットで、インフルエンサーっていう言葉を見つけたんです。それを調べたら、インフルエンサーって、インフルエンザから言葉が来てるらしいんですよ。インフルエンザって、いろんな人にすぐ伝染してしまうじゃないですか。その頃はまだコロナがなかったので、インフルエンザが感染症の中で最も伝染しやすいよ、と言われてたんですけども、それぐらい、いろんな人に、いろんな影響を伝染させてしまう人を、インフルエンサーと呼ぶ、って書いてあったんです。
それで、これいい言葉だなと思って、私はもっと車椅子とか、障がい者のイメージを、もっとポジティブで身近な存在に、みんなが感じてもらえるように伝染させてしまう人になりたい、と思ったんです。
それで転職するときに、いい言葉がなかなか見つからなくて、タレントなの?って言われても、それも何か違うと思って、「車椅子インフルエンサー」っていう勝手な職業名を考え出しまして、それをただただ7年間言い続けています。そんな感じで、車椅子インフルエンサー、というお仕事をやらせてもらっております。

ということで、こんな感じでお仕事してるんですけど、車椅子になるまでの人生をちょっとだけお話しします。
よく私、こわもてなので、もともと不良とか、ヤンキーとか言われたり、バイク事故で車椅子になったんですか?って勝手に言われることが多いんですよね。
ヤンキーの方とか仲間だと思われがちなんですけど、違うんです。バイク事故で車椅子になった訳じゃないんです。

 (スクリーンに、中嶋氏の幼少期の写真が写る。)
 私はですね、9歳までは歩いていました。けんじょうしゃ、と呼ばれるカテゴリーにいる、普通の健康的な女の子でした。運動が大好きで、いつも走り回って、足が青アザだらけ、そんな女の子でした。


 (スクリーンに、体操服を着て、クラスメイトと一緒にいる中嶋氏の写真が写る。)
 幼少期の写真を探したら、足が青アザだらけの写真しかないっていう、それで私だけ裸足でっていう写真がいっぱいあったので、今日は見せたいなと思ってお見せします。一番右のやんちゃな女の子は私なんですけども、こんな感じで本当に運動が大好きでした。

 (スクリーンに、中嶋氏が友達2人とけん玉をしている写真が写る。)
この写真は、小学校3年生の時のですね。歩けなくなるちょっと前ぐらいです、私は、すごく大きくて、小学校9歳で、身長は140センチあったんですね。これみんな同学年なんですけど、私だけ異常に大きいっていう感じでした。

 あと、今日時間あるかわかんないんですけど、けん玉を持ってきました。最後に、みんなで時間があったらけん玉対決したいなと思って、いっぱい持ってきたんです。でも、多分時間ないと思うので、今1回だけ、ちょっと見せびらかしたいので、ちょっとだけプレーしてもいいですか? 小学校から毎日私けん玉やってたので。私、車椅子ユーザーのなかで、一番けん玉がうまい自信があるので、10秒だけやらせてください。
(中嶋氏が、けん玉をプレーし、会場から拍手が起きる。)
こんな感じで、小学校の頃、けん玉が流行っていて、まだ歩いてた時、毎日友達と「もしもし亀よ~」と歌いながら、けん玉を一緒にやってたんです。

 (スクリーンに、中嶋氏が一輪車に乗っている写真が写る。)
 私は、小学校では、趣味がけん玉、そして、他には特に一輪車が趣味でした。一輪車というと、昭和感がすごいんですけど、私は昭和61年生まれなので、仕方ないんですけど。こんな感じで、いつも外で遊んでたんです。

 (スクリーンに、小学生の中嶋氏が体操服を来て、クラスメイトと一緒に並んでいる写真が写る。)
 私は9歳で140センチ、これ一番真ん中が私なんですけど、本当に足が太くて、悩みで、すごい嫌だったんです。ブルマ履かなきゃいけなくて、太もも出さなきゃいけないのが、すごい嫌で、本当にすごい太い足が嫌、っていうぐらい、健康的な女の子だったんです。

 (スクリーンに、小学生の中嶋氏が、鉄棒に友達とぶら下がっている写真が写る。)
 そんな私は、なんと、小学校3年生、9歳の時に、ある日突然、原因不明で歩けなくなってしまったんです。
この日も、いつもどおり、小学校に走って行って、休み時間に、校庭に行って遊んでたんです。
それで、いつもどおり、友達と鉄棒してたんです。鉄棒のコウモリっていう、コウモリみたいにぶら下がるやつを、友達5人ぐらいでやって、コウモリ大会をしてたんです。
 私、10分ぐらいぶら下がって、コウモリ大会で見事優勝しちゃったんです。それで、私が優勝して終わりということで、教室戻ろうと思って、ぶら下がった状態からジャンプして、地面に着地したんです。その瞬間に、ちょっと眩暈がして、ふらふらして、あれ?ちょっとぶら下がり過ぎちゃったかな、と思いました。
ふらふらして動けないから、友達に抱えてもらってそのまま保健室に行きました。その時はまだ歩いてたんですけど、歩きながら、倒れそうになりながら保健室まで行って、数分、1人で椅子の上で休んでたんです。それでまた、次の授業行かなきゃなと思って、立ち上がろうとした瞬間、もう足が動かなくなってしまったんです。
 たった10分の間で、私は突然歩けなくなったんです。でも私は、足が動かなくなってるんだって、分からなかったので、歩いて、クラスに行こうと思ったら、歩けなくなって、そのまま椅子から、ずり落ちちゃったんです。それでその瞬間に、保健室の先生に「足が動かないんですけど」って言ったら、先生がびっくりして、何時間かまた保健室で寝てたんですけど、一向に足が治らなかったんです。
足が動かないっていうことで、そのまま先生に病院に連れてってもらって、そこから何と1年半、入院生活が始まりました。


 (スクリーンに、入院中の中嶋氏の写真が写る。)
 入院中の写真を探したんですが、この変顔してるやつ1枚しかなくて、もうちょっと悲壮感がある写真だと良かったんですけど、意外とエンジョイしてた、っていう感じでした。入院中、1年半、いろんな病院を転々として、いろんな病院で検査を受けたんですけど、結局、原因が分かりませんでした。
お医者さんから、もしかしたら、歩けなくなった1週間前に、私は風邪をひいてたんですけど、その風邪の菌がたまたま脊髄に入って、炎症を起こして下半身麻痺になってしまったか、もしくは、鉄棒からジャンプして降りた瞬間の衝撃で、たまたま運悪く背骨に傷が入って、脊髄に傷が入って、下半身麻痺になったかぐらいしか、分からないんです、って言われました。
結局いまだに原因が不明で、病名は、横断性脊髄炎ですけど、おへそから下の感覚が全くなくて、自力で足を動かすことができません。それで、おへそから下の感覚がないので、おトイレに行きたいっていう感覚がないので、私定期的に、意識的にトイレに行っています。たまに忘れて全然行かないと尿が漏れていたりすることもあります。9歳から、そんな障がい者になってしまったんですね。
 それで1年半入院しても、結局治る見込みもないので、このまま退院しましょう、ということで、退院したんです。でも私、歩けなくなった時、まだ9歳だったので、そこまで深刻に自分は捉えてなかったんです。

 入院した初日に、病院に行ってから、私、足がすごい痛かったんです。すごい足に痛みを感じて、痛すぎて、意識を失ってたみたいで、あんまり入院当時の記憶がないんです。意識を取り戻したら、もうベッドに寝ていて、気づいたら鼻から管を入れられて、呼吸器みたいなのつけられて、寝たきりになってたんです。
「私、どうしたんだろう?」と思って起きて、その病室のドアが、たまたまちょっと、あいていて、そのドアの隙間から、お母さんが見えたんです。
いつも明るくて元気なお母さんなんですけど、その日、ドアの隙間から、お母さんが泣き崩れてる瞬間が見えちゃったんですよ。それを見てしまったので、私も何かあったんだなって察して、何か私に起きてるんじゃないかな、と思いながらも、私も何も触れませんでした。お母さんも何も触れず、元気そうに部屋に戻ってきて、それから毎日普通の入院生活をしてたんです。


 後から聞いたんですけど、実はお母さんは「娘さんは、一生歩けません」って宣告されてたみたいです。でも、私は当時子どもだったので、宣告みたいなものを、一切されてなかったので、自分がこのまま一生歩けない、っていうことは分からないまま、ずっと入院生活をエンジョイしてたんです。

 でも急に、入院中、何ヶ月かしてから、お母さんと喋ってたら、急にお母さんが、普通の会話をしている時に、「涼子は、一生歩けないらしいよ。」って急に言ったんです。なので「え?」って私は驚いたんです。でも普通の会話の流れで、いきなり言われたから、私は聞き返せず、「マジで?」とか言って笑ってたんです。けど、頭の中では嘘でしょう、って思いながら、頭の中が真っ白になりながら、平気な振りして笑ってました。その出来事は、すごい忘れられないんですけど、一応そんな感じで、私は、かるくお母さんから宣告されたんです。
大人になってから、事故だったり病気で入院した人は、多分当事者本人が宣告されて、よくドラマで泣いたりしてる、シーンあると思うんですけど、私はそれを経験してないんです。お母さんからの不意打ちっていう、感じの宣告でした。

 (スクリーンに、退院後、中嶋氏が初めて、小学校に戻った時の写真が写る。体操服を着たクラスメイトが、車椅子に乗っている中嶋氏を囲んでいる。)
 そんな感じで、入院生活約1年半を終えて退院することができたんです。その時、私が行ってた小学校の先生たちが、車椅子になった私を受け入れようと言ってくれたんです。とある先生がたは、特別支援学校に行った方がいいんじゃないかっていう意見もあったんですけど。
私の担任の先生とか、私の両親や、友達の親御さんたちが話し合ってくれて、どうやったら手伝え合えるか、みんなで手伝ってみようよって話し合ってくれたおかげで、受け入れてもらえたんです。当時は前例のない感じで、全校生徒で私だけ車椅子、っていう状態で受け入れてくれて、本当に感謝しました。

 これは初めて車椅子になって、小学校に戻ってきた日の写真で、その日は運動会だったんですけど、本当に私は怖かったんです。みんな私が車椅子に乗っているのを見て落ち込むのかなとか、嫌われないかなとか、かわいそうって思われるのかな、とかすごいネガティブな気持ちで小学校に行ったんです。そうしたら、いった途端、運動会で種目を終えた、みんなが来てくれて、「おかえり!」って言ってくれて、みんなで車椅子乗せてとか、操作させてってみんなが言ってくれて、すごく安心した瞬間の1枚なんです。
すごく安心して本当によかったんですけど、それから毎日通学が始まり、みんな、私が歩いてる時と変わらず接してくれて、すごく楽しかったんです。

 (スクリーンに、車椅子に乗った中嶋氏が、クラスメイトと運動会に出ている写真が写る。)
 だけど、みんなは大丈夫でも、やっぱり私の中では、みんなと違うことが、ちょっとずつ辛くなってきました。今まで自分は歩いてて、休み時間になれば鉄棒で遊んだり、友達と縄跳びしたりしてたんですね。足を使うことが、私は好きだったんだなって、あとから思ったんですけど、休み時間になっても、今はそれができないこと、でも友達はみんなそれをしてるのを見ながら、楽しそうだけど、私は平気な振りして見てたんです。
 その時、泣きそうになりながら、悔しいって思いを抱えながら、やっぱり私だけ歩けないんだ、っていうことが悔しくて、ずっと「かっこ悪い」って思ってたんですよね。自分だけ車椅子で、こうやって運動会も出させてもらって、みんなと一緒に踊ったり、種目をやらせてもらうんだけど、やっぱり自分だけ車椅子に乗ってるのが、かっこ悪い、ってずっと思ってたんですね。多分それは私が歩いてたときに、障がい者の人や、車椅子の人に対して、偏見を持ってたからだと思うんです。かっこ悪いって思ってたと思うんです。歩いてた時、車椅子に乗っている人って、大変そうで、かわいそうで、自分とは関係ないって思ってたんですね。それに歩いてた時に、全然そういう人たちと、会ったことがなかったから、余計に未知の世界でした。関係ない世界って思ってたものに、自分がある日、突然なってしまって、だから余計に、その自分が今まで持ってた偏見を、自分自身に向けてしまったんです。だから今、私みんなにかわいそう、と思われてるのかな、とか、かっこ悪い、と思われてるのかな、っていう気持ちを抱えながら、小学校で毎日過ごしたりしてました。街に出た時にも、そういう気持ちがあったから、いろんな人に見られる度に、辛くなってしまって、外出するのがどんどん怖くなってしまったんですね。
 小学校は知り合いしかいないから、よかったんですけど、それ以外は、もう誰にも会わないで家にいて、静かに、テレビとか見てるほうが楽だなって思って、生きてたんです。小学校4年生の頃まで、誰かに迷惑をかけるのが怖い、申し訳ない、恥ずかしいって思って、ずっとそう思って生きてたんです。

でもそんな時に、運命の出会いがありました。小学校3年生か4年生、約28年前なんですけど、当時、1997年に一世を風靡していた映画があったんです。こちらの映画皆さんご覧になりましたでしょうか。(スクリーンに、映画「タイタニック」の写真が写る。)
 タイタニック、見たかた、いらっしゃいますか?半分以上のかたが、見ていらっしゃいますね。
こないだ中学校に講演に行ったら、誰1人見てなくて知らなかったのが、ジェネレーションギャップを感じました。今日は知っているかたが多くて、よかったです。
 この映画、タイタニックが小学校4年生の時にすごく流行ってたんです。ディカプリオはもうブレイクしてて、全然映画の中では興味なかったんですけれども。
当時の親友に「タイタニック見に行かない?」って言われて、すごい私嫌だったんです。絶対映画館なんか人がいっぱいいて、車椅子で私が行ったら、絶対またみんなに見られてすごい嫌だろうな、浮くだろうなと思ったんです。でもこう見えて私、誘いとか、あんまり断れないタイプなんですよ。
なので嫌々、タイタニック見に行ったんですね、友達と友達のお母さん、私と私のお母さんとで行きました。当時はお母さんと一緒じゃないと、出かけられない年齢だったんです。

 それでタイタニックを見たんですけども、この映画を見た後に思ったことがありました。
「もう1回タイタニックを見に、外に出たい!」って思ったんですね、この映画を見にもう1回、外に出たいと思ったんです。私歩けなくなって、初めて自分から外に出たい、と思えた瞬間が、この時でした。結果ですね、11回タイタニックを見に、外に出てました。気づいたら、11回も外に出られたんです。引きこもりだった自分が、気づいたら11回も外に出ていて、それはタイタニックを見たかったからなんです。

 でも、28年前の日本は、今ほど街中はバリアフリーでもないし、車椅子だったり、障がい者の人が、あんまり街中にいない時代でした。なので、とある映画館に行った時には、車椅子のかたは、お断りしますとか言われたりしました。一生忘れない言葉があるんですけど、ある映画館で「車椅子の人は家にいればいいんですよ。」って一回言われたことがあって、すごいショックで、落ち込んで、すごくその映画館を恨んでたら、そこは、そのあと潰れたんですけどね。それぐらいムカついてたんですけど、もう一生忘れないぐらい傷ついたし、心ない言葉もいろんな人に言われたけども、それでも、私が諦めなかったのは、それ以上にタイタニックを見たいっていうパワーがあったからなんです。本当に私はタイタニックに人生を救われました。

 私は小学校4年生、10歳にして、夢が見つかりました。歩けなくなったおかげで、夢が見つかりました。私はタイタニックに前向きに生きるエネルギー、パワーをもらえたから、いつか自分も映画を作る側の人になって、落ち込んでる人や、殻に閉じこもっている人に、前向きに生きるパワーとか、何か諦めない勇気みたいなものを、映画を通して、今度は自分が与える人に、いつかなりたいって夢を、タイタニックに出会って、見つけることができたんですね。

 本当に歩けなくなって落ち込んだけど、夢が見つかって、すごく歩けなくなって良かったって思うんです。いつか映画の本場、ハリウッドがあるアメリカに行って、映画の仕事をして、運が良かったら、ディカプリオみたいな人と結婚したいっていう夢を、小学校の卒業文集に書いたんです。

 その夢を、叶えるために、まず1回アメリカに行ってみよう、ということで、中学一年生の時に、私は家族旅行で初めてのハワイ、アメリカに行ったんです。その時に、またもや運命の出来事2つ目が起きました。

まず、私は東京出身なんですけど、東京って、駅とかで知らない人、とすれ違った時に誰も何も言わないんですよ。例えば目が合っても、みんな目をそらすんですよ。なので、それが当たり前だと思って、私は今まで生きてたんです。

 (スクリーンに、中嶋氏が、ハワイで笑っている写真が写る。)

 そんな中、アメリカに行ったら、いきなり知らない外国人が、みんな目が合う度に、私に、笑顔で”ハーイ!”って言ってくるんですよ。それで、その流れで“Can I help you?”って言ってくれて、「何か手伝うことある?」ってみんなが、言ってくれたんです。
全く知らない人と目が合うだけで、”ハーイ, Can I help you?”って、みんなが言ってきてくれて、何か手伝うことある?とか、なんで車椅子なの?って言ってくる人が、いっぱい、いたんです。
 街中で全く知らない人が、すれ違う瞬間に、たった何秒かの間に、会話が繰り広げられるんですけど、いきなり土足で車椅子に踏み込んでくるんですよ。何で車椅子なの?とか、何か手伝おうか?とか、あそこにエレベーターあったよとか、みんなが車椅子に触れてくれる感じが、私はすごくうれしかったんです。
その目が合っただけで、笑顔で ”ハーイ!” って言ってくる感じが、何か受け入れてもらえてる感じがして、すごくうれしかったんです。
 それまで日本にいた時って、みんな目があってもそらすんです。それに日本で車椅子だと、車椅子の人って、あんまり街にいないから、珍しい感じで見られることが多いんですよね。それで、ただ見てるだけの人が多いから、その時に勝手に私が「今私かわいそう、って思われたのかな」とか、「どう思われて、見られてるんだろう」って、勝手に思い込んで、周りの人に対して申し訳なかったし、居づらかったんです。街に行って、いろんな人に見られることが、辛かったんですね。

でも、そんなときに外国、アメリカに行ったら、みんなが私を見た瞬間に”ハーイ!”って言ってくれて、何か手伝おうかとか、なんで車椅子なのとか、思ってることを言ってくれたことは、すごくうれしかったんです。その時、これこそが「心のバリアフリーなんだな」ってすごく感じたんですね。


 「バリアフリー」っていうのは、今日一番お話ししたいことなんですけど、「バリア」っていうのは英語で「壁」とか「障害物」っていう意味で、「フリー」っていうのは、「捉われていない」とか、「自由」だったり、そんな意味なんです。まさに壁や、障がい、がない世界のことを、「バリアフリー」というんです。よく環境に対して使われて、例えば、段差がない会場をバリアフリー会場と言ったりします。

 (スクリーンに、「心(ハート)のバリアフリー」という言葉が写る。)
まさに私がハワイで体験したことは、心にバリアのない、「心のバリアフリー」だなっていうのを、アメリカで私はすごく感じて、すごく生きやすいと思ったんです。ハワイ旅行で、やっぱりアメリカで、いつか映画の勉強がしたい、っていう思いが、確信になったんです。

 じゃあアメリカの、心のバリアフリーはすごく素敵だった、だったら環境のバリアフリーは、どうだったのか。そこもまた、アメリカの環境のバリアフリーが、すごく素敵だった所がいっぱいあったので、いくつかお話しします。

 (スクリーンに、日本の多目的トイレの写真が写る。)
 まずおトイレ。日本では、車椅子の人は、多目的トイレと呼ばれる、特別な車椅子仕様になってる、お手洗いに行きます。多目的トイレ、ちょっと広くて、手すりがついてるトイレでないと、車椅子では、はいれないんです。
 (スクリーンに、日本の、男性用トイレの中に、多目的トイレがある、写真が写る。)
 たまにこういう感じで、男性用のトイレにしか多目的トイレがなかったり、女性用のトイレにしか、多目的トイレがない場合もあって、異性の人がはいる時に、すごく気まずいっていう問題があります。このパターンで、多目的トイレに入ろうとしたら、男性がトイレしてるのが見えて、気まずくなりながら入って、びっくりされることもあるんです。多目的トイレは特別な場所にしかない、っていう印象は、日本ではあると思うんです。

 (スクリーンに、アメリカのトイレの写真が写る。)
 でもアメリカに行ったら、多目的トイレっていうもの自体が、存在しないんです。
その代わり、男性用、女性用のトイレに、それぞれ絶対1個以上は広くて、手すりがついて、車椅子の人が、はいれるトイレがないといけない、っていう法律があるので、普通のトイレにさえ行けば、車椅子でも絶対トイレに、はいれたんですよね。
 だから私はアメリカに行って初めて、歩けなくなって初めて、アメリカで、普通に女性用トイレに、はいれたことが、すごくうれしかったんです。歩ける人と一緒だっていうことが、すごいうれしかったんです。そんな感じで、多目的トイレ自体がない、っていう考えに感動したんです。

 そして今度は映画館にも行ったんです。やっぱり映画好きの私としては、アメリカで映画を見てみようということで行ったんです。
 (スクリーンに、日本の映画館の座席の配置図が写る。)
まず、日本の映画館は、大体一番前に、1、2席、車椅子用の席があるのが普通なんです。よかったら、ぜひ皆さん映画館に行った際にチェックして欲しいです。私映画が好きなので、毎週映画館で見るんですけど、大体、席が一番前なので、2時間ぐらい見ると、首がすごく凝って、目が取れそうになるんです。それでも、やっぱり映画が好きだから、見てるんですけど、それが普通だと思ってました。


 (スクリーンに、中嶋氏が日本の映画館で、他の席と離れて設置された、車椅子用の席に座っている、写真が写る。)
たまにこういう感じで、車椅子用の席だけ、隔離されてるパターンがあるんです。このあいだ、歩ける友達と一緒に映画館に行って、隣同士で席とって行ったら、まさかの車椅子ユーザーの席が隔離されてたんです。なので、友達とポップコーンをシェアできなかった、っていう切なさがあって、この写真を撮ってみたんです。この出来事で、車椅子用の席が隔離されているのが、ちょっと切ないなあって、ずっと日本で思ってたんです。

 (スクリーンに、アメリカの映画館の劇場内の写真が写る。)

 なので車椅子用の席は、隔離されている、もしくは一番前が、映画館で見るスタイルだと思って、アメリカで、映画館に行ったらなんと。いろんな場所にスペースがありまして、いろんな列のいろんな場所にスペースがあって、好きなスペースを選んで、そこで車椅子の人が見れる。もしくはベビーカーを持ってるお母さんだったりが見れて、その隣には普通の椅子があるので、隣同士で歩いてる人と車椅子の人が一緒に見れたりするんです。それで、その広いスペースがいっぱいあるので、車椅子ユーザーは何人で行っても、みんなで見れるんです。そういう、歩いてる人と同じで、選択肢があることや、好きな場所で見れるっていう、歩いている人と一緒のことができることに、本当に感動してしまいました。なので、日本でもいつかこんな映画館が増えたらいいなと思って、ぜひ一緒に皆さんで作っていきたいなって思いました。

 (スクリーンに、中嶋氏がアメリカのビーチにいる写真が写る。)
あとは、茅ヶ崎といえば、ビーチなんですけど、日本で、車椅子になってから、海に行ったことがあったんですけど、やっぱり砂浜、砂利道って、車椅子がうもれてしまって、海には、はいれなかったんですよね。なので、もう車椅子になってから、ずっと海に行くのを諦めてたんです。ずっと海には行けないって思ってたんです。泳ぐことも諦めてたんですね。
そう思ってハワイでビーチに行ったら、何と、いろんな場所にスロープがあって、スロープがそのまま海の中まで繋がっていて、車椅子で、海の近くぎりぎりまで行けたんです。その時は、お兄ちゃん家族と行ったので、そこから先は、お兄ちゃんに抱っこしてもらって海の中に、はいれたんですね。車椅子になって初めて、アメリカで海に入った瞬間でした。感動して、海にまで、はいれるんだと、すごくうれしかったです。

そんなアメリカの、車椅子でも、どこでも行けるんだ、っていうことにすごく感動したんです。アメリカの環境のバリアフリーに感動しました。

 (スクリーンに、アメリカの障がい者専用駐車場に駐車するための、車椅子マークが写る。)
 他には、これは制度の違いなんですけど、日本で、車椅子用の駐車場ってあるじゃないですか。そこに停められるのは、車椅子マークをつけた車両だけなんですけど、日本で車椅子マークって、実は、東急ハンズとかドンキホーテ辺りで売ってるんですよね。誰でも買うことができて、たまに、それをつけて、歩ける人が車椅子用駐車場に駐車して、そこから歩いて出ていくのをよく見かけることもあるんです。もしかしたら、何かしらの障がいがあるかもしれないから、注意はできないんですけど。
 日本に対してアメリカでは、この車椅子マークは、病気って診断された、お医者さんの診断書がないと、貰うことができなくて、一時的な病気の人は、一時的な病気のプラカードっていうものを、先生の診断書がないと手に入れられないんです。これを付けてない車が、障がい者専用駐車場に停めていたのが発見された場合は、罰金10万円っていう、法律があるんです。だから、違法で止めてる人があまりいなかったり、法律もすごく考えられてるなと思って、日本でもこんな仕組みも取り入れたらいいのになってすごく、感じて、いろいろと考えさせられた、ハワイ旅行でした。

 心のバリアフリーはハート面、ハートのバリアフリーって言いますね、環境のバリアフリーは、ハードのバリアフリーと言うらしいです。ハートの面、ハードの面、どちらもバリアフリーに溢れたハワイ、アメリカに行って、私は、初めて車椅子で良かったと思ったんです。
「居場所を見つけた。車椅子の私でも、そのままで生きられる場所があったんだ。」と思ったんです。それで、やっぱりこの国で、いつか映画を勉強して、自分もいつか映画を作る側になって、誰かにパワーを与える人になろう、っていう願いが確信になった、ハワイ旅行だったんです。

 あの旅行を経て、アメリカ留学を決意しました。私、中高の英語以外は勉強も本当にしてないぐらい勉強が嫌いなんです。英語だけ頑張って、数学がすごい嫌いで、数学は9点を取ったことがあるぐらい。英語だけ頑張り、とりあえず卒業ができ、アメリカに18歳から約8年間、留学しました。

 (スクリーンに、アメリカ、ロサンゼルスの写真が写る、)
 「中嶋涼子、渡米」、これが、私の人生の第2章だと思ってるんです。アメリカ合衆国のカリフォルニア州、ロサンゼルスっていう場所があるところに留学をしたんです。カリフォルニア州の大きさって、日本と同じ大きさなんですよね。
それくらいアメリカって大きいっていう話なんですけど、そこに18歳から留学をしていました。

 (スクリーンに、アメリカの大学のキャンパスに、車椅子ユーザーの学生が、たくさんいる写真が写る。)
アメリカでの大学生活なんですけど、アメリカの大学にはキャンパスに、車椅子ユーザーは毎日のように、なんにんもいて、当たり前にいっぱいたんです。車椅子ユーザーだけじゃなくて、杖をついてる人とか、聴覚障がいの人とか、障がい者だけじゃなくて、いろんな国の人とか、いろんな年齢の人とか、普通にいたんです。おばちゃんで、普通にバイトや、パートに行く感じで、授業だけ受けに来てるんだっていう人がいたり、昔大学に行けなかったから今来てるんだっていう、おばちゃんとか、おじいさんとかいたりして、いろんな年齢の人、いろんな国の人、いろんな障がいがある人が、いっぱいいるキャンパスに本当に感動しました。

 (先ほどの写真の右上に、大学のプールに、車椅子ユーザーの学生が二人並んでいる、写真がある。)
 この一番右上の写真は、大学に障がい者用のスポーツっていう授業があったので、それを受けてみた時のものです。泳いで見たくて、障がい者用のスポーツの中の、水泳の授業を取ってたんですね。
 そしたらまさかの先生が車椅子ユーザーで、車椅子からどうやって泳ぐかを教えてもらえたりしました。先生にも普通に車椅子ユーザーや、障がいがある人がいっぱいいる。それが普通の日常だったんです。

 (スクリーンに、「初めての、連れション」というタイトルがついた、中嶋氏が、大学時代の友達と写っている写真が写る。)
 こんな感じで、毎日当たり前に、障がい者の人と触れ合うことが、普通になっていました。
そんな中で私、これタイトルにしちゃうぐらい感動したことなんですけど、初めての、「連れション」を経験したんです。
 私は、小学校3年生で車椅子になってからずっと普通の小中高に通って、私以外みんな歩ける友達で、それが普通だったんですね。その友達とはいつも、トイレに一緒に行くんですよ。大体女子は、すぐ一緒にトイレに行きたがるんですけど、トイレに行くとみんな喋りながら、女子トイレに入ってくんですよね。それで、私だけ真ん中にある多目的トイレに1人で行くたびに、私だけみんなと違う、と思ってすごい悲しかったんです。トイレに行くたびに、私はみんなと違うんだなって思って、悲しくなってたんです。
 でもアメリカに行って、大学で友達と初めて話しながら、女性用トイレに入った瞬間に「連れションしてる!」と思ってすごくうれしかったんです。それですら、今まで私は出来ていなかったんだなと思いました。
 皆さんにとっては当たり前のことでしょうか、あんまりしないかな。この、「連れション」、という言葉、このあいだ、小学校に講演に行った時に、言ったら誰もその言葉を知らなかったから、今は死語らしいですね。
ここにいる皆さんは分かりますよね、皆さん言いますよね?
その、「連れション」、に本当に憧れてて、喋りながら、女友達とトイレ入って、喋りながらトイレして、戻ってまた喋ってる感じがもうすごい憧れだったんです。それができたことがうれしかったって話なんです。
それぐらい障がいを忘れちゃうぐらい、健常しゃ、と同じように、アメリカでは日常過ごせていたんですよね、


 (スクリーンに、中嶋氏がアメリカの大学の卒業式に参加している写真が、2枚写る。)
 それを、今こうやって思い返すと、それこそが今よく言われている、インクルーシブな社会だったんだなって思うんです。
 私が18歳の時のことだから、18年前ですね。18年前はインクルーシブなんて言葉がなかったんです。最近ですよね、日本でダイバーシティーとかインクルーシブっていう言葉がすごく使われ出して、そういった社会を目指そうって言われ出してるんです。
 そんな言葉知らなかったけど、アメリカでまさにそれを体感してたんだ、私は幸せ者だなって思ったんです。アメリカで、インクルーシブな社会に、自分がいたんだなっていうことを思いました。

 (先ほどの大学の卒業式の右側の写真に、中嶋氏の右側に男性が写っている。)
 それでこの写真も、この右側の私の右にいるおじさん、教授みたいに見えるんですけど、この人、私のマブダチなんです、私の同級生で、アフリカ人のマブダチで、授業とか一緒に受けて、一緒に勉強してた仲間なんです。

(先ほどの大学の卒業式の右側の写真に、中嶋氏の左側に男性が写っている。)
それで、この写真の、私の左側にいる人、ピアスしてて、はなピアスもしてて、全身タトゥーまみれの人のことなんですが、この人社会学の教授なんですね。
全然見た目じゃ分からないくらい、いろんな見た目の人が、いろんなポジション、いろんな場所に普通にいて、いろんな人が、人として、一緒にアメリカで暮らしていたんですよね。
本当にいろんな場所に、いろんな見た目、いろんな国の人、いろんな年齢の人が、い過ぎたんです。
毎日いろんな見た目の人だったり、いろんな国の人だったり、いろんな障がいがある人だったり、いろんな年齢の人と私は共存してるから、何もそのことに、違和感を、感じなくなったんですよね。

 でも、日本って、こうやっていろんな人と会う機会が少ないと思うんです。どうしても、一緒の年齢の人とか、同じタイプの人とか、同じ日本人だけとか、そういう環境で育ってる私たちは、別に悪くないと思うんです。だからこそ自分とちょっと違う人と、街中で出会ったときに、どうしていいかわからなくなるのが、当たり前だよな、って思ったんです。

 私、アメリカの大学に行ってた時に、よく同性同士のカップルを毎日のように見て、普通に同性同士が手を繋いでたり、芝生の上でイチャイチャしたりしてるのを見てました。
それで初めて図書館で勉強してた時に、目の前にいる女性2人が、イチャつきだしたんですよね。それでキスしだしたんですよ、図書館で。
びっくりして、初めて女性同士がキスしてるのを見て、「すごい!」と思ったんです。
ずっと勉強してたんですけども、正気じゃなくって、ずっと私は最初の日、彼女たちを見てたんです。
でもそれが毎週になってきたら、だんだんまたいるな、またイチャついてる、とは思いながらも、何も思わなくなって勉強できるようになりました。普通に見てたら何も思わなくなるんだなって思いました。

 日本って同性同士の人も、隠さなきゃいけないような雰囲気があって、それって街中でそういう人がいないから、いると、皆がびっくりしてしまう。だからこそ隠さなきゃいけない。そんなふうになってしまってるのかなってすごく感じたんです。
 私はいろんな人が、もっともっと堂々と生きていける、それこそがインクルーシブな社会だと思うんです。日本もそうなったらいいのになって、すごく今思い返すと感じるんです。


 (スクリーンに、ダイバーシティーとインクルーシブ、の言葉の説明が写る。)
 ダイバーシティーとかインクルーシブっていう言葉、よく皆さん聞くと思うので、まとめてみました。ちょっと使いすぎて、私自身も書きながらよくわからなくなったんですけど。ダイバーシティーっていうのは、様々な文化とか、背景とか、経験、価値感、障がいの有無だったり、国籍とか、年齢とか、性別とか、宗教とか、さっきも言いました性的マイノリティーと呼ばれる方々だったりとか、人間でもいろんな人がいるよ、っていうこと、いろんな人のことを多様性、ダイバーシティーと呼ぶらしいんですね。そんな多様な人たちが、それぞれの違いを認め合って、共に尊重しながら暮らしていく社会、をインクルーシブな社会と言います。それでも排除されない世界のことを、インクルーシブな世界と呼ぶって書いてあったんです。言葉にするとすごい難しいんですよね。

 (再びスクリーンに、先ほどのアメリカの大学の卒業式の写真が写る。)
ただ私は、ダイバーシティーやインクルーシブは、このアメリカで経験した世界のことなんだろうなって感じるんです。いろんな人が当たり前に生きてる、いろんな人と触れ合う、それこそがインクルーシブ、そして、ダイバーシティーの人たちなんだって思ったんです。

 この言葉、すごく難しいと思うんです。ダイバーシティー、そしてインクルーシブ、”D&I“、ダイバーシティー&インクルージョンとよく言います。これを頭文字DとIを一文字ずつ、1個前にすると、EとJに変わるんですけど、ダイバーシティーっていろんな人たちが楽しんでる様子、”Enjoy”だと、私は思うんです。
 そしてそんな多様な人たちが社会に参加できてる、いろんな場所に参加できる、”Join”できている社会こそが、インクルーシブだと思うんです。
だからこそ、”D&I”っていう言葉よりも、”Enjoy & Join”っていう言葉をもっと言い易く、皆さんで広めていきたいなと思っているんです。

 (スクリーンに、アメリカ留学中の写真が写る。)
いろんな人が楽しんで、いろんな人がいろんな場所に参加できる社会、それこそが今日本が目指してる社会なんじゃないのかなって思うんです。
留学中の写真を探したら、やっぱりいろんな見た目や体つきの人、いろんな国の人、いろんな年齢の人が写ってるんです。いろんな風貌の人がいるのは、まさに私が経験してきた留学生活が”Enjoy & Join”だったんだなと思って、それを日本にも伝えていきたいなと思ってます。
それが日本でも当たり前、になったらいいな、と思ってます。

アメリカがいいよね、って言ってるんじゃなくて、アメリカで、私は障がい、のことを、忘れて生きていて、すごく生きやすかったんです。日本でも、きっと生きづらさを感じてる人って、いっぱいる、と思うんですよね。だからこそみんなが生きづらさを感じない、どんな人も生きやすい社会、堂々と生きていける社会に日本もなったら、絶対にもっと楽しくなる、って思うから、アメリカみたいになったらいいよねって思ってるんです。

 (スクリーンに、中嶋氏がアメリカの大学で、映画の勉強をしている写真、卒業した時の写真が写る。)
そんな感じで、アメリカ留学生活を、無事終えました。
映画の勉強で、いろんな映画の撮影や、監督をやったり、いろんな勉強をして、無事に大学を卒業しました。卒業式には、お母さんが、日本から来てくれました。それで私は卒業して、2012年に日本に帰国しました。

 (スクリーンに、中嶋氏が日本で働いている写真が写る。映画の編集をしている写真も写る。)
そして、日本で就職をして、夢だった映画の仕事に就くことができたんですね。ずっと就きたかった映画の仕事に就けて、夢が叶って、すごくうれしかったんです。この時、有頂天でした。
2012年、タイタニックを制作した、フォックスっていう会社に就職をすることができて、夢が叶って幸せなはずなのに、当時、毎日会社に通ってても、全然楽しくなかったんですね、

 (スクリーンに、中嶋氏が職場の人たちと写っている写真が写る。)
何でだろう、って思ったときに、日本の社会で初めて私は働いたので、その中ですごく、やっぱり、障がい者として「自分はマイノリティーだな」って感じる機会が多かったからなんです。
やっぱり会社の中で、私だけが車椅子ユーザーで、会社の車椅子用のトイレは、男子用のトイレにしかなかったりしたんです。さっきお話ししたんですけど、男子用トイレに毎日行ったり、あとは毎日通勤ラッシュの中、「すみません。」って言いながらも車椅子で電車に乗るんですけども、やっぱり通勤ラッシュで皆さん急いでるから、「邪魔だよ。」みたいなこと、結構言われるんです。人混みの中で、足を踏んじゃった人とかいると「邪魔なんだよ。」とか言われて、「すみません!」って毎日言いながら、会社に着くころにはすごい心が疲弊してしまっていました。

 (スクリーンに、物が散らかって汚れた、多目的トイレの写真が写る。)
 これ当時の写真なんです。会社の帰りにトイレに行こうと思って、車椅子用トイレに行かなきゃと思って探したんですけども、中々なくて、駅でようやく見つけたトイレに入ったんです。そうしたら、何と壁に血糊がついてて、ウィッグが散乱してて、私は遺体があると思って、驚いて叫んだんですよ。
 その日はハロウィンで、ハロウィンの衣装に着替えてた人が、トイレを片づけないで出たから、血糊がついてただけだったんですけどね。それぐらい散乱してて、便器に血糊がいっぱいついてたから、結局使えなかったんです。
 すごいショックで、トイレが汚すぎてびっくりしちゃって、結局トイレもはいれず、次の多目的トイレを探したけど、トイレがなくて、そのまま我慢して家に着いたら、おしっこが漏れていて、泣くっていう日があったんです。
 その時、毎日何でこんなに辛いんだろう?と思ってしまって、私、歩いてたらもっと楽なのになって、また障がいがあることで、生きづらさを感じてしまったんですよね。

 でも、アメリカにいた時、私は障がい、を忘れてるくらい生きやすかったのに何でだろう、私自身何も変わってないのに、何でこんなに生きづらいんだろう?って感じた時に、思ったことがあったんです。
「障がいってもしかしたら社会が作ってるのかもしれない。」って思ったんですよね。
もちろん障がい者と呼ばれる人たちがいるんですけども。社会がその障がい者の生きづらさを、作ってるのかもしれないな、と思いました。
だったら、社会が変わったら、障がいを感じる人なんか、いなくなるんじゃないのかなって思ったんです。これは日本とアメリカ、どっちも生活して生きてきた自分だからこそ、分かったことだと思うんです。日本にずっといたら、生きづらさを抱えて生きていくのが当たり前で、それが障がい者だって、思って生きてたと思うんです。「すみません。」って言いながら、毎日生きていたと思います。
でもそんな自分でも、障がいを忘れてしまうぐらい、アメリカに居場所があったんですよね。その障がいを忘れられるぐらいの社会を、もっともっと日本で生きづらさを感じている障がい当事者にも感じて欲しいってすごく思ったんです。
何かそのアメリカの環境を伝えたいなってずっと、会社員をしながら、ずっと思ってたんですよね。
社会をどうにかアメリカみたいに、バリアフリーの社会に変えられないかな、って思っていて、でも私なんか何もできないしって、誰かが変えてくれたらいいなって思って、毎日悶々と生きてたんです。


 (スクリーンに、中嶋氏を含め、車椅子ユーザーの女性、3人の写真が写る。)
そんな時に、またもや運命の出来事3つ目がありました。
2017年に、たまたまSNSで障がい当事者の同世代の女子と仲良くなったんです。
私はFacebook世代なので、Facebookでたまたま、車椅子の女性を見かけたんですよね。
 それでおしゃれな格好してたから、「おしゃれですね。」ってコメントしたら、返事が来たんです。そこから仲良くなって、彼女が、障がいがある女子が集まるイベントがあるから、行きませんかって誘ってくれたんです。どうしても何かを変えたいっていう気持ちがあった自分は、初めて自分から、イベントに参加してみたんです。そこに行ったら、いろんな障がいがある女子がいっぱいいて、そこで初めていろんな、車椅子の女友達ができて、そこで出会った1人が、このかた、なんです。

(スクリーンに、イベントで出会った友達の写真が写る。)
2017年、約8年前に出会った彼女は、当時、杖をついて歩いてたんですけど、出会った時に、彼女が私に言ったんです。
「私ね、そのうち病気進行するから、歩けなくなるんだよね。」って言って、「そのうち車椅子になって、そのあと寝たきりになるんだよね。」って言ってて。「私、車椅子になったら何もできなくなって、人生終わると思ってたけど、涼子ちゃん見たら、いろんなことして楽しそうで元気出た、ありがとう。」って彼女が言ってくれたんです。
私の中では、彼女がすごくキラキラして見えました。彼女は、当時は杖をついて歩きながら、外資系の会社で会社員をしながら、結婚していて主婦もしていました。毎日、旦那のご飯作んなきゃいけないとか言いながら、休みの日はシンガーソングライターとして、いろんな人の前で講演活動したり、歌を歌ったりしてるんだ、っていうことを聞いて、「何この人!」って私はすごく感銘を受けたんです。このかたは、進行性の病気を持って、絶対自分がこれから進行していくことを、知って生きていくって、すごい辛いと思うんですよね。なのにいろんなことをしていて、すごく人生を楽しんでて、私なんか、別に進行なんかしないのに、下半身が麻痺してるだけなのに、なんでこんなに毎日生きづらいって、ぼやいてたんだろうと思って、「何かもったいない。」って思ったんですよね。「私も彼女みたいに、もっといろんなことしたい。」ってすごく背中を押されたんです。

 (スクリーンに、中嶋氏を含む三人の車椅子ユーザーの女性による、車椅子ユニット“BEYOND GIRLS”の写真が写る。)
そんな時に彼女から一緒に、「車椅子でもかっこいい!」って思ってもらえるようなグループをやらない?って、ナンパされたんです。
彼女から、私がキラキラしてると思ってた、かたからのナンパだったんで、すごくうれしかったんです。結果ですね、一緒に車椅子ユニットをすることになりました。
 2018年にその会で仲良くなった車椅子女子3人で、「車椅子ガールズ」っていうダサい名前なんですけど、ユニットを結成しました。
それで、ちょっと名前が余りに恥ずかしいから、変えようということで、”BEYOND GIRLS”って改名したんです。”BEYOND”っていうのは、英語で「乗り越える」っていう意味なんです。どんなことも挑戦して乗り越えていけるような、等身大の存在になりたいねっていう思いを込めて、BEYOND GIRLSを結成しました。私は会社員をしながら、休みの日にBEYOND GIRLSとして、いろんな場所で、歌ったり、踊ったり、講演をしたり、するようになったんです。

 (スクリーンに、中嶋氏がBEYOND GIRLSとして、活動している写真が写る。)
 自分で初めてアメリカでの経験とか、アメリカが、こんなふうにバリアフリーなんだよって、日本もこうなったらいいと思います、っていうことを言えるようになってきました。そうやって皆さんにも知ってもらうことで、生きがいを、すごく感じるようになりました。
その講演だったり、パフォーマンスをした後に、見てくれたお客さんが、笑ってる顔を見たりとか、見終わった人から、私も何かやってみようと思いました、っていう意見をもらったことがあって、その時に、すごく、もっとこの活動はやるべきことだな、って思ったんですよね。

そして、好きな映画の仕事をしてるよりも、今はもしかしたら、日本を、もっともっとバリアフリーな社会に変えることを、したいなって、それは、車椅子の私じゃないと、もしかしたら、できないのかもしれない、ってだんだん思うようになりました。会社よりBEYOND GIRLSの活動に生きがいを、どんどん感じてしまったんですよね。

環境のバリアフリーっていうのは、多分すぐに変えられないと思うんですよ。例えば階段があったら、ここにエレベーターを作りましょうとか、段差があるからここにスロープを作りましょうっていうと、お金も予算も時間もかかるじゃないですか。偉い人に言わなきゃいけない。私には権力がないからそんなことできないんですけど、心のバリアフリーっていうものなら、今皆さんにお伝えしたことで、ちょっとなら変わるかもしれないし、人の心なら、変えられるかもしれないと思ったんですよね。例えば階段があったら、もし皆さんがよければ、車椅子を持って上げてくれませんかって、4人ぐらいで抱えあげたら、その階段って乗り越えられるんですよね。たった10センチぐらいの段差も、1人で、車椅子を後ろから押してくれるだけでも、乗り越えることができるんですよね。そういうことも、私は車椅子になる前、知らなかったんですよ。それを皆さんが知ってくれたら、もし段差があっても、「手伝うよ」って言ってくれたら、私たちで、バリアフリーに変えられるんですよね。そのことをもっと伝えていきたい、って思ったんです。当事者が発信することなら、それならできるかもしれない。もっとそれをいっぱいしていきたいと思って、私は「そうだ、会社を辞めよう。」って思いました。「そうだ、京都行こう。」くらいのノリです。

(スクリーンに、中嶋氏が退職した時の写真が写る。)
本当にとっさに辞めようと思って、2017年に会社を辞めました。大好きな映画の仕事は、いつか日本が、インクルーシブな社会になって、なにも生きづらさを感じなくなった時にやればいいんだ、今はだから1回置いておこうと思ったんです。それでこれからは、バリアフリーの活動をしていこうと思ったんです。

(スクリーンに、中嶋氏が車椅子インフルエンサーになった時の写真が写る。)
2018年に、私の人生の第3章と思ってるんですけど、はじめに言いました「車椅子インフルエンサー」っていう言葉を勝手に考えて、いろんな人に車椅子のイメージ、障がい者のイメージを、身近なものに、ポジティブなものに、伝染させていく人になりたい、っていう思いを持って、転職をしました。

 (スクリーンに、「日本の社会にある、バリアを壊していく、バリアブレーカーになりたい。」という、中嶋氏のモットーが写る。)
 私のモットーというか、目標はですね、日本の社会にある壁というか、日本人の心にある、自分と違う人への壁、違和感を壊せるような、そんなバリアブレーカーみたいな人になりたいっていうことです。そう思って、いろんなことを今発信し続けています。

 (スクリーンに、中嶋氏が、水陸両用の車椅子に乗って、海に入っていたり、乗馬をしていたり、サーキットでカートに乗っていたり、バイクに乗っている写真が写る。)
 どんなことを発信しているかと言いますと、障がいの当事者だったり、障がい当事者のご家族だったりが、伝えたいことなんです。
 私が歩けなくなってすぐの頃、勝手なイメージで、私はもう車椅子になったら何もできないと思ってたんです。それは多分皆さんにもあると思うんです。だから皆さん、いつか急に、あした歩けなくなったとしたらすごく落ち込むと思うんですよね。
 それって多分イメージで、車椅子の人って大変そう、何もできなそう、っていうイメージを持ってしまっている。それは車椅子ユーザーで何かをしてる人、あんまりメディアだったり、普段見ないからだと思うんですよね。
 だけど私は車椅子になって29年経って、いろんな障がい者の人と出会ったら、障がいがあっても、いろんなことを楽しんでる人が、いっぱいいたんですよね。いろんなことができることも分かって、いろんな人のサポートや支え、いろんなテクノロジーを使えば、いろんなことができたんですよね。そのできることを、いっぱい伝えていきたくて発信しています。

 (スクリーンに、中嶋氏が車椅子でもできるパラグライダーをしている動画が写る。)
 例えば、これはこの前、山形県に行って、車椅子でもできる、パラグライダーがあったので、やってみたんです。車椅子の真後ろに、インストラクターさんがついて、空を飛べるというものでした。それで、パラグライダーに初挑戦して、私は死ぬほど楽しかったんです。空から見た世界が本当に小さすぎて、今まで悩んでたことは何だったんだろう、と思うぐらい、地球が小さく見えたんです。すごく楽しかったし、歩けなくなった時にこんな世界があったことも知らなくて、もっとこういうことを伝えていきたいと、改めて思ったんです。

 (スクリーンに、中嶋氏が、手だけでクライミングをしている動画が流れる。)
 他には、これはクライミングをしているところです。手だけでクライミングができる場所があるんですね。そこで車椅子ユーザーのかたが、クライミングをしてるということで、私もやりに行ってみたんです。実は私の兄がロッククライマーで、オーストラリアの方で登ってるんです。お兄ちゃんの血筋が入ってるからか、分からないんですけど、私も登っていたら、燃えてきちゃったんです。頂上まで行けたんですけど、手だけで登ってたら、すごい筋肉痛になって、翌日寝たきりになったんです。こうやって、クライミングも、手だけでもできるんです。これはクライマーになろうかな、と思った日の動画ですが、足の感覚がないから、登る時、いろんなとこにぶつかって、次の日は足がアザだらけになっていて、怖かったんです。でもこうやって、ちゃんと車椅子でも、クライミングできる場所があるんです。

 (スクリーンに、中嶋氏が手だけで、車を運転している動画が流れる。)
 あとは、これアメリカ時代なんですけど、手動装置っていうものをつければ、車椅子でも足が動かなくても、手だけで運転することができたんです。手動装置で、初めて車の運転をすることができたんです。

 (スクリーンに、中嶋氏が、車椅子に乗ったまま乗れるハンドバイクで、車椅子ユーザーの友達とサイクリングしている動画が流れる。)
 あとは、これハンドバイクって言うんですけど、車椅子に前輪をつけると、バイク、(自転車のようなもの)、にたちまち変わるものがあって、これで、みんなでサイクリングをしたんです。
このサイクリングをした時に、昔、歩いている時に、友達と自転車で走った時のように、すごく青春を感じて、遅めの青春を、最近すごく感じています。
障がい者になって、お友達たちとも一緒にスポーツもできないって、ずっと孤独感を感じてたんですよ。ようやく大人になって、友達ができて、一緒にスポーツや、いろんなことができることが分かって、すごく人生が楽しくなったんです。

 (スクリーンに、中嶋氏がバイクに乗っている写真と、動画が写る。)
 これよくバイクですか、って言われるんですけど、これ本当にバイクに乗ってる写真です。車椅子用のバイクっていうものに、乗った時の動画です。車椅子ごと乗れるバイクがあって、これに乗って、街に繰り出したわけです。
これ、本当に車椅子になった理由がバイク事故なのかなっていうぐらい、私、バイクって楽しいな、と思いました。私、多分車椅子にならなくて、歩いてたとしても、バイク事故になってたかも、っていうぐらい、とっても楽しかったんです。風をさっそうと切る感じが、すごく気持ち良かったです。

 (スクリーンに、中嶋氏がサーキットで運転している写真が写る。)
 他には、マリオカートみたいな、カートに乗りに、サーキットに行きました。乗るときにサポートしてくれるんですね。椅子を用意してくれて、サーキットまで移動して、カートに移れる、サポートがありました。手動装置で運転することができて、みんなで乗ることができました。

(スクリーンに、日本で中嶋氏と車椅子ユーザーの友達が、水陸両用の車椅子に乗って海に入っている写真と、動画が写る。)
あとは、こちら初めて日本で海に入った時の動画なんですけど、水陸両用の車椅子っていうものがあるんです。もしかしたら茅ヶ崎のビーチや、湘南にもあると思います。これは湘南ではないんですけど、東京の方の海でちょっと汚いんですけどね。車椅子になって初めて、日本で海に入った場面なんです。
水陸両用の車椅子で、こういったバリアフリーピーチと言って、マットをひいてくれて夏の間だけ、車椅子でも動ける状態になっていて、こんな感じで入ります。水が、お風呂みたいに温かくて、こんな感じで初めて日本で海に入りました。

(スクリーンに、中嶋氏がヘルパーの人と、高尾山で登山をしている写真が写る。)
こんな感じで、まず本当にいろんなことが、日本人でもいろんなことができるんだなって、分かってきました。他には、これは東京にある高尾山に、登った時です。
ジンリキっていう機械があって、この車椅子の前の部分に棒をつけて、人力車みたいにできるんです。それをつけてヘルパーのかたが、ここから人力車の人みたいに、引っ張ってくるんですね。
私、引っ張られながら頂上まで登って、私の力ではないんですけど、これは頂上まで行けたときの写真です。

(スクリーンに、中嶋氏が乗馬をしている動画が流れる。)
あとは、これは乗馬をした時の動画です。車椅子の人用の乗馬、っていうプログラムがあって、男性のかたが支えて乗せてくれて、馬に乗った後は落ちないように、女性のかたがずっと背中で支えててくれるんです。たった一つ、人の支えがあれば、馬にも乗ることができて、いろんなことが出来るんですよね。車椅子に乗ってても、こんな感じで、いろいろと経験しました。

(スクリーンに、中嶋氏がサップ、スタンドアップパドルボードをしている写真が写る。)
これはスタンドアップパドルボード、っていうやつなんですけど、本当はこれそのまま乗るものなんですよね。でも私が、車椅子ごと乗りたい、って言ったら乗せてくれたんです。これ波が来たら私が倒れて終わってしまうんですが、それでも挑戦することができました。これはサップを経験させてもらった時の写真なんですけど、そんな感じで、いろんなことを、やらせてもらいました。

私がYouTubeや、テレビに出た時、私がいろいろチャレンジした動画を見せることで、いろんな人に、こんなこともできるんだっていう気持ちを知って欲しくて、撮りました。どんなこともできるんだって思っていれば、多分、ある日突然、車椅子生活になったとしてもそこまで落ち込まないと思うんです。
車椅子でも、あの人あんなことをしてたな、あんなこともできるんだねっていう、当たり前の考えが、もし皆さんの中にあったら、ある日突然歩けなくなったとしても、そこまで何もできなくなるっていう、落ち込みがなくなるんじゃないかな、と思うので、いろんなチャレンジをこれからも、伝え続けていきたいなって思ってます。

(スクリーンに、中嶋氏と車椅子ユーザーの友達が、チェアスキーをやっている写真と動画が写る。)
他にも、チェアスキーの動画もあって、面白いので見せますね。これ最初はインストラクターのかたが、後ろで引っ張ってくれてるんです。でも何回もやっていくうちに、インストラクターのかたが、だんだん慣れてきたなってわかるのか、支えを外すんです。けど、私、支えを外されていることに気づいてないので、気づいたら隣にインストラクターがいて、「ええっ!」ってびっくりしながら、「私滑れてる!」って、うれしくなって、調子に乗り出して、この時すごいスピード出してるんです。ちょっと調子に乗って、ちょっと曲がってみようか、なんて思ったんですよね。このあと、私すごく勢いよく転んだんです。でもすごい楽しかった。このチェアスキーの体験の動画ですね、これちょっと動けなくなってますけど、すごい楽しかったんですよね。こんなふうにいろんなことが、「できます!」っていうことを伝えたいんです。

 (スクリーンに、中嶋氏が、バリアフリーツアーセンターの人たち、車椅子ユーザーの参加者と、街歩きをしている写真が写る。)
もうちょっと活動してることを伝えると、湘南にバリアフリーツアーセンターっていう、NPO法人があるんですけども、私よくそのかたがた、と一緒にバリアフリーツアーをよくやるんです。
バリアフリー調査と言って、車椅子ユーザーが何人かで集まって、みんなで街歩きをして、どこまでみんなで行けるか、どこが不便か、調査するんです。そして一緒にその調査をすることで、バリアフリーマップを作る。そんなお仕事をよく湘南のかたがたと一緒にしています。

(スクリーンに、中嶋氏とバリアフリーツアーセンターの人たち、車椅子ユーザーの参加者と、鎌倉で街歩きをしている写真が写る。)
これは、鎌倉のいろんな由緒ある場所に行って、どこまで行けるか、街歩きした時の写真です。こんな感じでここまでしか行けないねとか、どこまで行けるかをみんなで調査する。いろんな障がいのある車椅子ユーザーで、行きました。
例えばここは有名な鎌倉のお寺ですね、ここはすごい階段があって、ここは無理だよねって諦めていました。その時に、一緒に来てくれたボランティアの大学生が、「俺たちで運びたいんですけど。」って言ってくれたんですよ。私はもちろん「いいんですか?」って言ったんですけど、お互いに行ってみようって気持ちがあったので、運んでもらって頂上まで行ったんですよ。
(スクリーンに、ボランティアの大学生が車椅子を抱えて、お寺の階段を上っている動画が写る。)
皆で頑張って運んでくれたんです。一緒にいる車椅子ユーザーの、体の大きな男性も運んでもらって、みんなで上まで行ってお参りすることができたんです。
そういう、「お互いにやってみよう!」、「トライしてみよう!」、っていう気持ちがあったら、人の力での手伝いって、いいんじゃないかなと私は思います。その人が運ぶことによって、お寺の階段のバリアは、もうフリーにしたなって、乗り越えられたなって。それが心のバリアフリーなんだな、ってすごく感じてたんです。そんなみんなでどこまでやってみようか、どうやったらできるか、それを考えるのがバリアフリーツアーだなと思うんです。

(スクリーンに、中嶋氏が能登にバリアフリーツアーに行った時、男性に抱きかかえてもらい、山に登っている動画が流れる。)
これは震災が起きる前に、能登にバリアフリーツアーに行った時の動画です。これもまた山で、一番頂上までは、階段しかなかったんだけど、私、行きたいって言ったんですよ。みんなで話し合って、行きたいなら行こう、って言ってくれました。「じゃあ抱っこしよう」って言ってくれて、抱っこする人と、車椅子を持つ人に分かれて、頂上まで運んでくれたんです。
(スクリーンに、男性の車椅子ユーザーを、複数の人で車椅子ごと抱えて、頂上まで運んでいる動画が写る。)
私は軽いので、抱きかかえてもらったんですが、体格の良い人は、みんなで車椅子ごと抱えて、運んでいました。これは、頂上まで行くことができて、すごく綺麗な山頂の景色を見ることができた時の動画なんです。こんな感じで、みんなで、障がいがある仲間と、山頂まで行くことができたんです。こういったバリアフリーツアーを、仕事としてやらせてもらっています。

(スクリーンに、湘南のバリアフリービーチの写真が写る。)
あとこれは湘南のビーチですね、バリアフリービーチです。年に1回、夏場はマットとか板を出してくれていて、海の家まで、車椅子で行くことができるようになってるんです。そんな、バリアフリービーチ開放デーっていうのがあるんです。なので、また来年もあったら行きたいし、茅ヶ崎の方々とも今後、バリアフリーツアーみたいな、お仕事を一緒に出来たらいいな、と思ってるんです。

(スクリーンに、中嶋氏が、沖縄のバリアフリーツアーで、スキューバーダイビングや、カヤックをやっている写真が写る。)
他にもいろいろあります。沖縄のバリアフリーツアーで、スキューバーダイビングや、カヤックに挑戦しました。
こんな感じで、バリアフリーツアーの目的は、人のサポート、心のバリアフリー、を借りて、どこまで行けるのか、そして、街中の環境のバリアフリーはどんなものなのか、それぞれのバリアフリーを再確認することができる、というものです。そういったことを、お仕事として、今は車椅子の自分にしか、できないこととして、やらせてもらっています。


バリアフリーツアーのお仕事以外にも、様々な職業体験をさせてもらっています。例えば、カフェの店員さんを定期的に、やらせてもらっています。(スクリーンに、中嶋氏がカフェで接客をしている動画が写る。)
 これは、徳島にインクルーシブカフェっていうカフェがあって、車椅子ユーザーのかたが、いっぱい働いているんです。そこで、定期的に私もアルバイトさせてもらっています。このカフェは、車椅子ユーザー向けに作られたので、レジが低いんです。だから、子どもや、車椅子ユーザーのお客さんは、すごくメニューが見やすいんです。車椅子ユーザーだと、ファミレスなどで、メニュー表が、上の方にあって見えない、取ろうとしても、くっついていて取れない、みたいなことがあって困るんです。そういうことが、インクルーシブカフェではなくて、いろんな人が過ごしやすいカフェになっています。でも、まだ全国区にはなってないので、こういったカフェも、いろんな場所にあったらいいな、ってすごく思っています。

(スクリーンに、中嶋氏がやっている、車椅子に乗って飲むバーの写真が写る。)
あとは、定期的に車椅子のママが、集まるバーをやってます。大阪で、年に4回、「立たない立ち飲みバル」っていうのをやっています。
大体バルって、高い位置に机があって、立って飲むんですけど、私たちのような車椅子ユーザーには高すぎて、一緒に飲んでいる人の顔が、少ししか見えなくて困る、ということがあるんですね、この立たない立ち飲みバルは、車椅子仕様になっていて、全部が低い。代わりに、お客さんにも車椅子の環境を、味わってもらいたいので、お客さんに入口で車椅子に乗ってもらって、みんな、同じ目線で一緒に飲んで語る、という内容になっています。よかったら皆さんも、大阪にお越しの際には、飲みに来てください。

(スクリーンに、中嶋氏がごみ収集をしている動画が流れる。)
他には、この前、ごみ収集体験をやらせてもらったことがあります。電動くるまいすを改造して、ごみ収集車を取り付けたものを使って、ごみ収集をしてました。この装置は、開発者の方と一緒に企画をして、作ったお掃除くるまいす、です。車椅子の人でも街中のごみ掃除や、そういう仕事もできるよ、っていう可能性を増やしていこう、という企画で作ったゴミ清掃車の、お掃除くるまいす、です。こんなものも作っています。


(スクリーンに、中嶋氏が出演した映画の写真が写る。)
そのほかには、おととし、映画に出演させてもらいました。大体車椅子の人とか、障がい者の人が、映画やドラマに出演してる場合って、主人公が、病気で大変な話とか、それに立ち向かって頑張っていく話とか、もしくは感動的なもの、そんな内容のものが多いと思うんです。
ですが、こちらの映画はですね、アクションコメディーなんです。その中で、マフィアのボス役を私は、やらせてもらいました。マフィアのボスが、たまたま車椅子に乗ってたっていうだけの設定です。車椅子カーチェイスのシーンがあるんですけど、「お前ら全員やっちまいな!」っていうセリフを放ったりしています。
そんな感じで、マフィア役をやらせてもらいまして、たまたま車椅子の人が映画の劇中にいるっていうだけで、本当に、それこそがインクルーシブな世界じゃないかな、と思いました。車椅子の人も、どんな人も、エンターテイメントの世界に、普通にいていいんじゃないかなって思ったんです。障がい者の役を、女優さんが演じるのもいいと思うんですけど、女優さんになりたい、障がい者が、その当事者役をやったら、よりリアルに演じられるんじゃないのかなとか、そんなふうに思ったんです。
この映画はDVDが出てるので、よかったら見て欲しいんですけど、私、本当に演技が下手なんです。私はこの映画に出て、もう演技をやりたくないと思ったんで、この先は多分やらないと思います。でも、本当に演技がやりたい、と思った障がい者のかたが、映画だったり、エンターテイメントに出られるチャンスって、すごく少ないと思うんです。それこそ当事者が、当事者役をやれるような環境を作ったら、本当にどんな仕事も、障がいがあっても、できるようになるんじゃないのかなって、すごく感じた、挑戦でした。

(スクリーンに、中嶋氏が出演した、ドラマの写真が写る。)
あと、ドラマにも挑戦させてもらいました。「カイルとリョーコ」というドラマで、アマゾンプライムで見れるので、よかったら見てください。ちょっと演技が下手で恥ずかしいですが。そんな訳でいろんな職業にチャレンジさせてもらっています。

(スクリーンに、中嶋氏を含む3人の人が、東京パラリンピックの閉会式でパフォーマンスをしている写真が写る。3人のうちの2人は、車椅子ユーザーである。)
また、2021年、東京パラリンピックの閉会式に、パフォーマーとして出演させてもらうことができました。私が、初めて車椅子で参加したイベントで出会った、すごくインスパイアされた当事者の女性、あの当時は杖をついて歩いてた、今はもう車椅子に乗ってる彼女と一緒に、オファーをしてもらって、2人でパフォーマンス出演することができました。その時に車椅子でパフォーマンスをしながら、すごくうれしくて、車椅子になってよかったな、って初めて思ったんですよね。車椅子になってなかったら、こんなにいろんなことができることすら知らなくて。障がいがあっても、いろんなことができる事実すら知らなくて。障がいがあったからこそ、出会った人がいっぱいいて、障がいだったからこそ、教えられる事実がいっぱいあって、私は車椅子になってよかったって思って、初めてパフォーマンスをしながら、感動してしまいました。車椅子になってよかったなって、心から思った瞬間が、このパラリンピックだったんです。そんな感じで、いろいろなことが、障がいがあったってできるんだよ、っていう可能性を、いろんなパターンについて発信させてもらってます。

 (スクリーンに、YouTubeで中嶋氏が、排便障害や尿取りパッドについて発信している写真が写る。)
 もう一つだけ発信してる内容についてお話しさせてください。それは、障がい者のリアルについてなんです。これは、障がいは、自分には関係ない、と思ってる人たちに向けてのものなんです。私も健常者の時は、障がいは、自分には関係ないって、私自身もずっと思ってたんです。私は別に、障がい者じゃないから、自分には関係ないって思ってた。そして、障がい者の人と触れ合ったことがないからこそ、どんな人か、どうやって生活してるか、わかんないからこそ、余計に触れ合った時に、どうしていいかわからなかった。だったら、どうやって生活してるかを、発信して、知ってもらえば、壁って越えられるんじゃないのかな、と思ったんです。
発信している内容は、ちょっと言いづらいこと、例えば、排泄の障がいの話とか、どんなオシメをしてるかとか、どんなふうに排尿をしてるか、などです。私はカテーテルっていうものを使って、排尿をするんですね。私の場合、自分で排尿しようとしても出ないんです。こういう、カテーテルっていう道具を使わないと、排尿ができないんです。私の場合はこんな状態です、っていうのを、ちょっと赤裸々なことを、YouTubeで発信しているので、よかったら見て欲しいです。下剤を飲まないと排便が出なくてすごく大変、みたいな話を、結構おもしろおかしく、お話ししてます。障がい者のリアルを、これからも発信して、ぜひ皆さんに知ってもらって、健常しゃと障がい者の壁を、壊していけたらいいな、って思って、発信し続けています。

最後の話ですが、映画館であった話をします。
去年のことですが、いつも行きつけの映画館で、階段がある劇場があって、行ったんですね。
その劇場でしか、上映してない映画を見たかったんです。この階段しかない劇場には、今までに何回かいった事がありました。4年前に1回行った時は、その映画館のかたが、手伝いましょうかって言ってくれて、手伝ってくれて、階段を4段乗り越えることができたんですね。それで見終わった後も、お手伝いしてくれて、この映画館でも、階段を手伝ってくれるんだ、ってずっと思って、何回か通ってたんです。
それで去年、いつもどおりこの階段のある劇場で、見たい映画を指定して、また、手伝ってもらったんです。私いつもどおり、階段を手伝ってもらって、上がって、椅子には自分で移るんですけど、映画を見終わって、感動して号泣してたんです。
それで、映画が終わって、お手伝いしてくれる人が来た時、偉い人が一緒に来たんですよね。支配人みたいなちょっと服が違うかたが一緒に来て、何だろう、と思ったら、「すいません、今後はちょっと、こちらの映画館で見ないでいただいた方が、お互いにとって気分がいいと思うんですけども。」って言われた時があったんです。それで私が「でも今までは見れてたんですけど。」って言った時に、「そのような過去の例は、伺っておりません。」っていうことを言われて、急に今後は見れません、っていうふうに言われた日があったんですよね。
「でも何で駄目なんですか?」って言った時に、「申し訳ありません。」としか言われず、何で急に駄目になったのかが、分からなかったことが、悔しかったんです。今まで行けたのに、急に駄目になっちゃった時に「何でだろう、何かをしてしまったのかな。」っていう、もどかしさがすごくあったんですね。それですごく悲しくて、急に拒絶されてしまったことが、すごく悲しくて、映画館から家に帰る途中、涙が止まらなくなって、悔しい、悲しいと思ったんです。それでつい、Twitterに、私はその出来事を書いてしまったんですね。「映画館に、はいれませんでした、急に拒否されて、何でだろう。」みたいなこと書いてしまったら、そのTwitterは、去年の3月に大炎上してしまいました。多分今も、ちょっと燃えてると思うので、中嶋涼子って、グーグル検索したら、クレーマーって出てくると思うんですよね。その印象があるかたは、私のことすごい怖い人だと、思ってると思うんですが。そんな当然のように「手伝ってください!」とか言った訳じゃないんですよ、本当にお互いに、手伝ってもらっていいですか、って言って、手伝いますって、言ってくれた上でのことなんです。
だけど、急に駄目になった、何でだろう、っていう気持ちを文章にしたら、炎上してしまったんです。やっぱり炎上ってしてしまうと、最初は、「何でだろうね。」、とか「映画館酷いね。」、みたいな声があったんです。でもだんだん、「この人って、人に頼んで当たり前だと思ってない?」みたいな、批判の声が増えてきて、私がすごい自己中な人、みたいになってしまったんです。

 (スクリーンに、中嶋氏が、炎上のきっかけになった映画館の座席に、座っている写真が写る。)
 この写真は、初めて、炎上のきっかけになった映画館に行った時に、うれし過ぎて、撮ってもらったんです。劇場のスタッフさんに、撮ってもらっていいですかって言ったら、「撮りまーす!」と言って、いっぱい撮ってくれて、「ちょっと笑ってください!」、とか言われて、ノリノリで撮った写真なんです。
 でも急に炎上した時に、この写真のことを、「調子乗ってる。」とか、「すごい楽しんでる。」とか、「スタッフに撮らして、本当に酷い。」みたいなことを言われちゃったんです。それで去年、そこから誹謗中傷の嵐になって、「死ね。」みたいな声が毎日届いて、殺害予告とか、家の住所をばらされて、ここを爆破します、とかいうのが来て怖かったんです。
 なので、発信の仕方を考えたほうがいいな、ってすごく学んだんです。炎上した時に、「だったら、障がい者は、家にいればいいじゃないですか。」、みたいなコメントもあって、本当に心無いコメントがいっぱいあったんです。「家にいればいいじゃん。」っていうコメントを見た時に、まだまだ差別ってあるんだなって、再確認してしまったんです。だからこそ、発信する時に、分断を生み出さないように、もっと伝え方を考えなければいけないなって、すごく学んだ出来事でした。リアルなことを発信するにも、言い方や、伝え方って大事だなと、すごく考えて悩んでたんです。

(スクリーンに、炎上のきっかけになった映画館に、スロープと車椅子席がついた写真が写る。)
そんな時に、去年の10月に、ちょっと炎上も治まったころに、その映画館にまた行ってみたんです。そしたら何と、その劇場に、スロープと車椅子席がついてたんですよ!バリアフリー環境に変わってたんです!
実は炎上直後に、炎上は辛かったけども、やっぱり私は声を上げて、何で駄目なんですかって、直接映画館の人と話し合ったんです。何で駄目だったのかを聞く、話し合いの機会を設けてもらったんです。その時に、手伝ったスタッフの1人が、ちょっと危ないと思ったらしくて、だから今後はお手伝いしない方向にしよう、車椅子のかたは、この劇場では見ない方向にしようっていう話し合いをした。その上で、あの言い方になってしまった、っていうことを映画館の人に伝えられて、だからこそ、今後は環境の方をバリアフリーにしようと思ってます、って言ってくれたんです。それは、去年の3月の話し合いの時に言ってくれたんですけど、実際に、その半年後に本当に環境が変わったので、話し合うことって大事なんだな、ってすごく改めて思った、そんな出来事でした。

 そんな感じで、どんな人たちもEnjoy、楽しむことができて、どんな場所にも参加できる、そんな”Enjoy&Join“な社会を、日本で、皆さんで作っていけたらいいなと思うんです。環境を変えることは、さっきも言ったんですけども、みんなではできないと思うんです。だからこそ、心のバリアフリーは、今これを聞いてくださってる皆さんでも、できると思うんです。例えば街中で、車椅子の人がいて困ってたら、一言、手伝いましょうか、とか言ってくれると、私はすごくうれしいし、ちょっとした段差もみんなで助け合えば、越えることができるから、諦めなくていいと思うんですよね。
 だからこそ、皆さんのその一言、私がアメリカで感じたような、目が合っただけで、”Can I help you?”って、「お手伝いしましょうか?」って言ってくれる、あの環境を、ぜひ日本でも一緒に作っていきたいな、って思ってるんです。

 最後になりますが、この世界は一つしかないと思うんですけど、一つしかないように見えて、それぞれ皆さんが見てる世界って、一人ひとり、全然違うと思うんですよね。見方によって世界ってどんどん変わっていく。良く見れば良いことも、悪く見たらどんどん悪く見えてしまう。
どう見るか、ってその人次第だと思うんですよ。私もずっと車椅子の人は、家にいなきゃいけない、申し訳ないと思って、生きていかなきゃいけない、って思い込んだ世界を見てた。だけど、見方を変えたら、どんな人も、どんなこともできることがわかった。それは見方を変えたからなんです。
 たった、1度しかない人生なんだから、これって、障がいの有無に関係なくて、皆さんにも言えると思うんですけど、できないことを、数えることより、人と比べて自分はこれが劣ってるとか、できないって考えちゃうこと多いと思うんですけど、そんなできないことを考えるよりも、できること、自分が好きなこととか、自分が得意なこととか、今できることを見つけて、今、この瞬間、人との違いを全力で楽しんで欲しいんです。皆さんが、あした歩けなくなっても、あした死んでも後悔しない人生を、一緒に生きて欲しいなって、そしたら、みんなが本当に”Enjoy&Join“できる社会に変わっていくんじゃないかな、って思うんです。
 それを今日伝えたくて、いろんなお話をさせていただいたんですけど、ここで終わりにさせていただきたいと思います。皆さんもぜひ一歩踏み出して、人生を楽しく生きてください。よろしくお願いします。ありがとうございました。

 

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