文学から広がりを見せる茅ヶ崎の文化

明治後期、南湖院の設立と同時期に茅ヶ崎に別荘を構えた歌舞伎界の大物スター・九代目市川團十郎、彼を慕う新劇の革命児・川上音二郎と妻の貞奴ら多くの芸能者、財界人、政治家、学者、外国人が東海道の南側、海と砂と松のほかは何もないこの地に移り住んだ。東京近郊のどこにでもある半農半漁の、藤沢と平塚の間に位置する「素通りされてきたまち」は、茅ケ崎駅開業と相まって、東京から1時間程度で空気の良い「一番近い、遠いところ(The Nearest Faraway Place)」として、都会の富裕層にイメージが広まった。茅ヶ崎の魅力を最初に発見したのは、都会人と外国人であったのである。
1936年(昭和11年)、松竹蒲田撮影所が大船に移転したことをきっかけに、多くの映画関係者が東海道・横須賀線沿線に居を構える。中でも当代人気スター上原謙は、大学時代から縁があった空気の良い茅ヶ崎に、生まれたばかりの病弱な長男・加山雄三を連れて引っ越す。映画監督の小津安二郎は、鎌倉に本宅があったが、戦後、年の半分を茅ヶ崎海岸近くの「茅ヶ崎館」に逗留し、創作活動に勤しんだ。有史以来人間が住んだことのない茅ケ崎駅南側の砂山は、継承するものが存在しない「何も書かれていない白いキャンバス」のようで、「無から有を生み出す」クリエイティブな人には、絶好の場所となった。
南湖院を接収した進駐軍が来て茅ヶ崎キャンプができると、キャンプで働く日本人を通じて、娯楽である音楽を筆頭に、西欧文化の一端が茅ヶ崎市民に流入してくる。そういった関係で茅ヶ崎が海辺のハイカラな町として、都会人を中心に人気が出て、映画・音楽関係者が移り住んだ。このような環境下、加山雄三は音楽で才能を発揮し、俳優業の傍ら、趣味で作った曲で聴く者を圧倒した。自ら作曲し、演奏し、歌う…従来の音楽産業システムとは異なる異能の“素人芸”が日本版ポップスの始まりとなった。近所の従兄弟の喜多島兄弟(ランチャーズ)、加山を慕う加瀬邦彦(ワイルド・ワンズ)も加わって、自由に曲を作り、演奏し、歌う“湘南サウンド”スタイルの礎が築かれた。
1960年代から1970年代にかけてビートルズなどの洋楽を聴いてきた高校生・大学生が、当たり前のようにギターを手に取り、グループを組み、オリジナルの音楽を作詞・作曲するようになり、茅ヶ崎でも多くのロック・バンドが誕生する。桑田佳祐もその一人。一方、折からのサーフィン・ブームで都会から多くの若者が湘南地方に繰り出し、人気雑誌『ポパイ』に映し出されるファッション、ライフ・スタイルなどが茅ヶ崎でも浸透する。1975年(昭和50年)、加山雄三の従姉妹が茅ヶ崎生まれのフォーク・デュオと始めた自宅のガレージを改造したカフェ『ブレッド・アンド・バター』は、東京から見て再び「一番近い、遠いところ(The Nearest Faraway Place)」となる。
平成時代に入ると、幼少期から邦楽・洋楽を分け隔てなく聴いてきた若者が、早くから楽器を弾きこなし、独自の音楽活動を始める。加えて、動画投稿サイトの出現によって、飛躍的に創造的志向が広がりを見せる。それまで東京という大都会との関係性の中に身を置いていた茅ヶ崎のアーティストが、地域性から解き放されて真にグローバルな活躍を始めている。また、近年、創造的な魅力あふれる茅ヶ崎に多くのアーティストが移り住んできている。彼らの創造性が生み出す化学反応は、文学から始まり映画や音楽など、文化の広がりを見せた茅ヶ崎に、多くのクリエイターが生まれ、集まり、育つためのエネルギーとなっている。
宮治 淳一
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