文学から花開いた茅ヶ崎の歴史
南湖院から始まる茅ヶ崎の文学
自らの使命を、病で苦しむ人々の救済にあると確信したクリスチャン・高田畊安が茅ヶ崎の海岸に結核療養所・南湖院を創設したのは1899年(明治32年)9月のことである。前年に茅ケ崎駅が開業し、別荘地や海水浴場としても注目されていたとは言え、人家もまばらで砂丘が広がるばかりだった。そこに忽然と現れた真っ白な病舎。その南湖院が東洋一と呼ばれるほどの規模となり、小説や詩、俳句や短歌など、多くの文学作品の創造の場となるとは、誰が想像したであろうか。
高田畊安は現在の東京大学でドイツ人医師ベルツから医学を学び、結核の研究に取り組んだ。1882年(明治15年)、コッホによって結核菌が発見されたが、結核の治療法は確立しておらず、空気の清浄な所で栄養価の高い食事で抵抗力をつけることが推奨されていた。仕事や学業を離れ、長期に療養できるのは、裕福な人が多く、南湖院で療養する人も同様で、しかも高学歴だった。しかし、時には病状が悪化し、死を迎えることもあった。そうした事態は他の患者を動揺させ、生と死をめぐる思索と煩悶の世界に導いていった。
患者達の多くは日記をつけ、俳句・短歌・詩・散文などで、日々の心情を綴っていた。それらを文芸誌に投稿することも多く、採用され、掲載されることは彼らの楽しみの一つだった。文学的活動は患者達の日常生活の一つだったのである。
不幸にも入院中に亡くなった場合、故人の無念の思いを残そうと、遺族が遺稿集を出版することもあった。いくつかは残存しており、当時の患者の生活と死生観を知る貴重な資料となっている。
南湖院ではクリスチャンの職員も多く、結核療養所でありながら、宗教的な雰囲気の強い南湖院は療養患者に病と信仰というテーマを与え、文学的表現にも何等かの影響を与えた。
1908年(明治41年)2月には、イギリスのロマン派詩人・ワーズワースに傾倒し、『武蔵野』でよく知られる作家である国木田独歩が入院した。病状はかなり深刻であった。文学仲間が見舞いに訪れ、入院費の足しにするため、『二十八人集』が刊行された。また、真山青果が読売新聞に独歩の病状を伝える『病牀録』を連載すると、南湖院の名は一躍全国に知られることになった。6月に独歩が36歳で亡くなると、彼が過ごした第三病舎九号室は特別な場所として語られることとなった。避暑地や別荘地としてもよく知られていた茅ヶ崎は結核療養の地としても有名になっていったのである。
独歩の療養時、日本女子大学校国文科を休学して南湖院で療養していた文学好きの保持研もいた。保持の同級生の妹である平塚らいてうは、女性の文芸誌『青鞜』の創刊を保持に相談し、創刊を決意したという。南湖院の文学的雰囲気に後押しされて『青鞜』(1911年、明治44年)が生まれたと言ってよいだろう。『青鞜』には多くの女性の文学作品が発表されたが、「元始、女性は太陽であった」というらいてうの創刊の辞に象徴されるように、女性の権利獲得運動の一翼をも担っていった。
一方、高田畊安は1911年(明治44年)にベルリン大学で学ぶ機会を得た。その際に、トーマスマンの『魔の山』でも知られるスイスのダボスをはじめ、ヨーロッパのサナトリウムを視察し、最先端の治療器具を南湖院に取り入れた。結核患者の増加とともに、南湖院も敷地や病舎を増やし、最盛期には五万坪にまで拡大したことから、東洋一のサナトリウムとも言われ、海外からも治療のために訪れる人がいた。
経済的に苦しい人や軽症の人は病院に隣接する民家に下宿して外来患者として治療を受けた。高田畊安は患者に平等に接し、軽費病舎を建て、治療費を免除することもあった。
高田畊安は、他に、茅ケ崎駅から南湖院までの道を整備し、海岸からの砂を防ぐために松を植えていった。訪れる患者のための宿泊施設、南湖院の職員としての雇用、患者の食糧や日用品を納める商店、砂丘と漁師の家が点在する海岸の姿はすっかり変わっていった。それとともに茅ヶ崎の人にとって、南湖院は生活を支える存在となっていったのである。
こうして、南湖院のある茅ヶ崎海岸には多くの患者、見舞客が訪れ、絶望と不安と時には安堵のなかで、南湖院を語り、小説、詩、短歌、俳句を作っていった。
松林を通って海岸に出れば、相模灘が広がり、東には江の島が、西には伊豆半島と箱根の山々、富士山を望むことができる。南湖院が建てられた当時も今も、それは変わらない。国木田独歩は風が吹くたびに姿を変える茅ヶ崎の砂丘に、変わりゆく人生を見たという。ここに文学が生まれないはずがない。
大島 英夫

南湖院入院中の国木田独歩と見舞の友人たち
茅ヶ崎市史ブックレット5「南湖院 高田畊
安と湘南のサナトリウム」P25

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