縄文時代

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ページ番号 C1041105  更新日  令和5年3月31日

 縄文時代は日本において旧石器時代の次の時代にあたり、大体1万6千~7千年前に始まり、2千数百年前まで続いた時代です。

 市内では縄文時代の遺構や遺跡がたくさん見つかっています。縄文時代は、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期に分けられますが、市内ではどの時代の資料もみつかっています。長い縄文時代を通して、ずっと茅ヶ崎に人が住み続けていたというのは、すごいことだと思いませんか。


市内の縄文遺跡分布図

 こちらは、市内の遺跡分布図に、縄文時代の遺跡をマーキングしたものです。色つきの丸印が遺構(いこう)、または遺物(いぶつ)がみつかった場所を示しています。少し見づらくなっていますが、マークが市域北部に集中しているのがお分かりいただけると思います。

 なぜ遺跡が北部に多いのか。それは、縄文時代に起こった大規模な海面上昇のために、南部のほとんどは人の住める状況でなかったからです。

 今からおよそ1万年前、地球上で最後の氷河期が終わると大規模な海面上昇が起こりました。日本では縄文時代にあたる時代の事象なので、「縄文海進(じょうもんかいしん)」とも呼ばれます。海面の高さのピークは地域によって違いますが、約7千年前の茅ヶ崎は、現在よりも2メートルから3メートルも海面が高かったといわれています。その後は長い年月をかけて海は後退していきましたが、縄文時代の終わり頃でも、現在の国道1号の北あたりまでは地面が乾ききっておらず、人が住むのに適した環境ではありませんでした。

太古の海岸線
上本進二・浅野哲也「茅ヶ崎低地の地形発達と遺跡形成」(『文化資料館調査研究報告7』、茅ヶ崎市文化資料館、1999)
p.7-10図引用

堤貝塚の展示

本村居村の深鉢

 

 

 

 

 

 

 

 海岸線のあった場所は、遺跡がみつかる場所によっても推定することができます。特に縄文海進の存在は、海沿いで多く見つかるはずの貝塚(かいづか)が内陸でみつかることから発見されました。貝塚は、縄文時代の人々が食べガラや割れた器などを捨てた共同のゴミ捨て場です。また、人や動物を葬った場所とも考えられています。市内では縄文時代の貝塚が4つみつかっており、特に縄文時代後期の貝塚である堤貝塚(つつみかいづか)は、県と市の指定史跡になっています。

 市内において新湘南バイパスの付近が、縄文時代後期までの遺跡がみつかっている南限ですが、本村の居村遺跡からは縄文時代晩期の土器の欠片が出土しています。また、展示にはありませんが、同じく本村の前ノ田遺跡(まえのたいせき)や、元町の石神遺跡(いしがみいせき)からも縄文時代晩期の土器片がみつかりました。このことから、後期から晩期にかけてさらに水が引いて、南部の環境が安定し、人びとの生活圏が広がったことがわかります。


 さて、縄文時代の人びとは動物や木の実をとって食べる生活をしていました。遺跡から発掘された道具によって、彼らがどんな狩りを行っていたのかを知ることができます。

 まず、こちらは尖頭器(せんとうき)といって、槍の先につけて使います。旧石器時代から使われている道具です。このような打製石斧(だせいせきふ)も縄文時代以前から使われているものです。

行谷遺跡の尖頭器

天神原遺跡の打製石斧


 弓矢は縄文時代から使われるようになった道具です。素早い獲物を攻撃するのに便利でした。また、落とし穴もよく使われていた狩りの方法です。市内でも落とし穴の跡がいくつか見つかっています。

石鏃

落とし穴猟の痕跡


 さらに縄文時代の人びとは、漁船を作って、沖合いまで漁に出かけたようです。動物の骨や貝殻でできた釣り針や銛、網につけるおもりやウキがみつかっています。

針と銛

錘とウキ

堤貝塚のはぎとり
堤貝塚の剥ぎ取り資料

 

 また、貝塚からみつかる貝殻や動物の骨は、縄文時代の人びとの食生活を知る貴重な手がかりです。例えば、ウツボの骨。ウツボは岩礁地帯に棲息する魚なので、縄文時代の人びとは姥島(うばじま)まで漁に出かけたことがわかります。

 そして、このダンベイキサゴという巻貝。堤貝塚でもたくさん貝殻がみつかっていますが、現在の砂浜によく貝殻が打ちあがります。縄文時代から現在まで、同じ種類の貝が茅ヶ崎の海に棲んでいるというのも面白いですね。

 日本の土壌は酸性なので普通骨などは残りにくいのですが、貝塚の場合は、包蔵された貝殻のカルシウムによって骨が腐食から守られるので、このように当時の食性を現在に伝えてくれるのです。


魚骨と海獣骨
貝塚からみつかった魚や海洋性動物の骨
ウツボの骨
堤貝塚からみつかったウツボのあごの骨
貝塚のダンベイキサゴ
堤貝塚の地層に埋まったダンベイキサゴの殻
ダンベイキサゴ
1階の自然展示でも、漂着物として
ダンベイキサゴが紹介されています。

さまざまな縄文土器

平皿形土器

注口土器


 縄文時代といえば縄文土器をイメージされる方も多いかと思います。当館では、市内からみつかった縄文土器の一部を紹介しています。こちらのずらりと並んだ土器類は、すべて縄文時代の土器です。形状は実にさまざまで、大きいものや小さいもの、深いものや浅いもの、把手や注ぎ口があるものがあります。

 また、模様に注目するのも面白いです。「縄文時代」という呼び方は、この時代の土器のなかに、縄(なわ)を押し付けた文様が施された土器が発見されたことが由来です。また縄目模様以外にも、前期には網(あみ)が押し付けられたような土器、中期には動物のようなモチーフがあしらわれた土器、後期には抽象的(ちゅうしょうてき)な模様が施されている土器がみられます。

 初めの頃は、煮炊きに使う道具としての土器が多くみられますが、時代が進んでくると、他の用途の土器や、装飾性の高い大きな土器が見つかるようになります。こちらの四隅突出形の深鉢形土器は堤貝塚から発掘されたもので、市の重要文化財になっています。

市指定重要文化財の深鉢形土器

 このような大きな土器は祭祀に使われたとも考えられていて、土器が見つかった堤遺跡には、当時たくさんの人が集まることがあったんだろうと考えられています。また、その人たちで採取したものを持ち寄って分配したのではないかとも考えられています。

 また、土器以外にも特徴的な土製品(どせいひん)もみつかっています。特に土偶は、縄文時代を特徴づける土器の一つです。完形のものが滅多に発掘されないのは、破壊して厄除けや豊穣祈願(ほうじょうきがん)のまじないに使ったからだと考えられています。また先ほどお話しした注ぎ口のついている土器、注口土器も、わざと破壊されたものが多くみつかるので、土偶と同じような使い方がされていたと考えられています。

久保山貝塚の土偶

(上)久保山貝塚から出土した土偶。
(右)行谷遺跡から出土した土製品。
何につかったものなのでしょうか。

行谷遺跡の土製祭祀具

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