広報ちがさき2022年(令和4年)12月1日号3面 No1173 catch The Wave(キャッチ ザ ウェーブ)vol.4 新しいアイデアや独自の工夫で時代の波に挑む市内事業者を紹介します。 産業振興課商工業振興担当 既存の考えにとらわれない取り組みを 株式会社由紀精密 取締役社長 永松純さん 由紀精密のノウハウが詰まったアナログプレーヤー〝AP(エー ピー)-0(ゼロ)〟。「培った技術を生かした自社発信の製品を作りたい」という思いで開発を始め、リリースまで2年半を要しました。〝AP-0〟でレコードを聴いたファンや専門家からは、「音がみずみずしい」と好評。 また、今年5月にドイツで開催された世界最大のオーディオフェアでも、たくさんの驚きの声が寄せられたそうです。今後も、海外展開を視野に入れつつ「いつか市民の皆さまに聞いていただける場所を作れたら」とも話してくれました。 株式会社由紀精密 円蔵370 ☎(82)4106 インスタグラム▶ 取締役社長 永松純さん AP-0の次に公開された新機種〝AP-01〟 市民の活動だより  ちがさき市民活動サポートセンター ☎(88)7546 未来を考える市民の会  市議会傍聴のハードルを下げ、傍聴席の現状を少しでも変えたいと思っています。定期的に市議会傍聴ツアーを企画しており、みんなで茅ヶ崎の政治について学びます。 傍聴前のレクチャー風景 ギカイに行こう 市政をもっと身近に 私たちの暮らしに関わるあらゆることが決められている市議会ですが、傍聴席は空席が目立ちます。もっとみんなで関心をという思いから、市議会を傍聴するツアーを定期的に開催しています。また、中学校給食や道の駅といったテーマを決めて議会録画を見る企画も実施しています。 今後、学習会やさまざまな角度からの情報交換、意見交換を行い、市政を身近に感じる機会を作っていきたいです。一人では心細いという方も一緒に行ってみませんか。 活動日 市議会定例会などに合わせ随時(年4回程度) 場所 市役所本庁舎傍聴室   問合   メール chigasaki_mirai_shimin@yahoo.co.jp 団体HP 藤池・信濃 両代表 茅ヶ崎ゆかりの人物たち 第二十八回 保持(やすもち) 研(よし) 高田畊安(こうあん)が開いた結核療養所・南湖院と、平塚らいてうが設立した女流文芸団体・青鞜社(せいとうしゃ)。その二つを影で支えていた保持研。作家としても活躍し、どちらにとってもなくてはならない、縁の下の力持ちのような存在でした。 結核と闘って 保持は、1885年に、現在の愛媛県今治市に生まれ、8歳の時、黴菌(ばいきん)で左目を失明し、以来義眼を装着していました。今治高等女学校を卒業後、1904年に日本女子大学校国文学部に入学しましたが、2年後に結核にかかり退学。その後、日本女子大の校医を務めていた高田畊安との縁で、茅ヶ崎にあった結核療養所・南湖院に入院することになります。 当時、南湖院の入院費用は高額で、保持はその費用を捻出するため、南湖院の事務仕事を手伝い、会計や庶務などの実務面で力を発揮していきます。それだけでなく学用患者となり、試験的に注射療法を受けていました。保持は精神的な強さもあり、次第に体調を回復。1910年には大学に復学し、翌年に卒業しました。 保持の存在は、南湖院の中でひときわ目立っていました。入院患者の日記や、南湖院を舞台にした小説の中にたびたび登場し、保持は結核患者だったとは思えないような大柄な容姿で表現されています。また、保持が南湖院で療養しながら仕事をしていた時期は、文学者である国木田独歩が入院していました。入院中の国木田は、わがままでたびたび看護師を困らせていましたが、保持の言うことだけは聞いたと言われています。面倒見のよかった保持は、若い社員から「おばさん」と呼ばれ慕われていました。 平塚らいてうとの出会い 保持は南湖院での療養中、同じく入院していた同級生・平塚孝と親しみ、それがきっかけで孝の妹・明(はる)、のちの平塚らいてうと出会うこととなります。らいてうは生田長江(いくたちょうこう)のすすめで青鞜社を設立し、それを強い熱意で後押ししたのが保持でした。1911年の青鞜社発足後、保持はその設立者の一人として、雑誌「青鞜」の運営にあたります。また、その多忙の中でも、同誌に「白雨(はくう)」という号で短歌や俳句を発表するなど、作家としても活躍しました。 発足して以降、青鞜社のメンバーは、たびたびスキャンダルを起こして世間を騒がせていました。そんな中、保持はらいてうたちを「品位も威厳もない児に育てたことを悲しんでおく」と手紙で叱りつける一方で、青鞜社に対する外部からの非難に対しては立ち向かう姿勢を見せ、青鞜社のメンバーたちにとっても頼もしい存在でした。 保持は退院後も、南湖院と青鞜社の仕事のため、茅ヶ崎と東京を行き来していました。特に、青鞜社のメンバーの一人である尾竹紅吉(おたけべによし)が南湖院に入院した際、保持は紅吉の面倒をよく見ました。紅吉からもよき相談相手として信頼を得ていたことが、紅吉の著作からうかがうことができます。 1913年には南湖院を退職、東京へ転居すると、青鞜社の仕事に打ち込んでいきます。しかし翌年には、精神的疲労により郷里の今治に帰って静養することとなります。しばらくして、保持は南湖院の入院患者であった小野東との結婚が決まり、これを機に青鞜社の仕事からは退いたのでした。 1947年5月23日に死去。61歳でした。 【文化生涯学習課市史編さん担当】 保持研 (所蔵 生田夏樹氏) こころのバリアフリー ありがとう!内部障がいのある私から…私は呼吸器の病気で酸素吸入器を使用しています。外出の時は携帯用酸素ボンベを持っていきます。急ぐと息切れするので、休みたくなります。最近は商業ビルやスーパーではベンチがあり一休みしています。煙にむせやすく、受動喫煙防止条例のおかげで、歩きタバコがなくなり、とても助かっています。