広報ちがさき2022年(令和4年)1月1日号5面 No1162 茅ヶ崎ゆかりの地 A 丹後局が鎌倉から逃れて源頼朝の子を出産 子の忠久は島津氏の祖となった伝説も 旧跡懐嶋山の碑(えな塚) 西久保 丹後局は頼朝の子を身ごもったことを妻・北条政子に知られてしまいます。身を隠すため、比企能員が丹後局を懐嶋郷の領主・大庭景能に預け、丹後局は桜屋敷に移った後、無事男子を出産します。ここに、えな(胎盤)を埋めたことから「えな塚」と呼ばれています。三郎と名付けられた子は鶴岡八幡宮社前で頼朝と対面。後に忠久と名乗り、薩摩を本拠地とした島津氏の祖となったという伝説があります。 新湘南バイパスの高架下に佇む「旧跡懐嶋山」の石碑 B 源義経の亡霊伝説が残る 国史跡・国天然記念物の橋の遺跡 旧相模川橋脚 下町屋1-551-2 源頼朝の家臣である稲毛重成が、1198年に亡き妻の供養のため、相模川に橋を架けたとされています。その落成式に参列した頼朝は、帰途で義経らの亡霊に会い、驚いた馬から落下しました。この時の怪我が原因で頼朝は亡くなったといわれています。 関東大震災のとき、水田から橋脚が出現。現在は保存のため埋め戻し、その上にレプリカを設置 C 大庭景能が伊勢神宮を勧請※し建立 京に向かう源頼朝が宿泊 円蔵2282 大庭御厨の一画である懐嶋を治めた景能は、自身の館の鬼門に伊勢神宮を勧請し、神明大神宮を建立しました。1190年に京都へ向かう頼朝がここに宿泊しました。大庭氏が滅びた後も、地域の人々に尊ばれてきました。館で奏でられた楽人の太鼓の音から、市指定重要文化財の円蔵祭囃子が出来たと言われています。 勧請…神仏の分身・分霊を他の地に移してまつること 社殿の裏に立つ懐嶋館址の碑と景能の石像 D 源頼朝の先祖が戦勝を祈願 ゆかりの大イチョウや弁慶塚も 鶴嶺八幡宮 浜之郷462 源義家が前九年の役に向かう際、父・源頼義が建立した懐嶋の八幡宮に頼義とともに戦勝祈願を行い、敵の安倍氏を破りました。後三年の役に向かう際も、懐嶋の八幡宮に戦勝祈願し、敵を制圧しました。義家は感謝の意を示すため、懐嶋から新たに浜之郷に分霊し、鶴嶺八幡宮を創建しました。1191年には、頼朝の命により大庭景能が社殿を修復し、再興しています。 史跡・天然記念物に指定された「鶴嶺八幡宮参道及び松並木」 社殿前の大イチョウは、義家が戦勝祈願した際に手植えしたものと伝えられており、「かながわの名木100選」に選定 源義経の家来である弁慶の霊を供養した「弁慶塚」 E 大庭景能が先祖をまつった神社 源頼朝の前に現れた源義経の霊を供養 御霊神社 南湖2-9-10 茅ヶ崎を本拠地とした景能が祖先の鎌倉権五郎景正の霊をまつったのが始まりといわれています。1198年、相模川に新造した橋の落成式から帰る頼朝の前に、亡霊となった義経が現れました。その魂を慰めるため、鎌倉権五郎景正と一緒にまつったとされています。 景正・義経の武運にあやかり、願掛けに多くの人が参拝 源頼朝ゆかりの地 MAP配布・動画配信 地元から発信する旅づくりの会が、ゆかりの地や周辺グルメを紹介するマップの配布や動画配信を1月上旬から開始します。散策やグルメを楽しみながら、頼朝の生きた時代に思いをはせてみませんか。 問合 茅ヶ崎市観光協会 ☎(84)0377 MAP&動画配信