市制70周年特集 わたしが見たあの日のちがさき  茅ヶ崎市は今年2017(平成29)年に市制施行70周年を迎える。 茅ヶ崎のまちは「療養地」「別荘地」から「ベッドタウン」へと変化をしてきた。 まちの変化と同じくして茅ヶ崎ではさまざまな出来事が起こった。歴史的なチガサキ・ビーチの返還、 湘南文化を牽引した当時最先端のホテルの誕生、 市民が支えた大規模野外イベント、海を越えて実現した姉妹都市締結―。茅ヶ崎の歩みを振り返る上で、大切な出来事を関係者の証言から振り返る。 【秘書広報課広報担当】 1959年 演習場チガサキ・ビーチの日本返還 〜 沼井 敏さん 〜 まだ戦争が続いているかのようだった  終戦を迎えてもなお、茅ヶ崎海岸には砲撃音が続いていた。第2次世界大戦末期にアメリカ軍で計画されていた茅ヶ崎海岸への上陸は、終戦後に実現することとなった。旧日本軍の辻堂演習場がアメリカ軍に接収され、演習場「チガサキ・ビーチ」となったのである。  そこから14年もの間、茅ヶ崎海岸は、まだ戦争が続いているかのようだった。  その中で大きな被害を受けていたのは、地元の漁業者であった。  父と漁業を始めた沼井敏さんは、その渦中にいた。「砲台から海岸まで民家が4、5軒あったが、その真上を砲弾が飛んで行った」というほどの危険な演習。その演習期間中は周辺の定置網などは撤去を求められた。「渋々、夜間に網をかけたが、ほとんど魚は取れなかった」と沼井さんは語った。  さらに、茅ヶ崎のシンボルであるえぼし岩にも被害が及んだ。  ある日、えぼし岩の先端が砲撃演習の砲弾を受けて欠けてしまった。えぼし岩は南湖、小和田の漁業権の境界になっていた。漁師たちにとって、えぼし岩が破壊されることは自らの生活圏を破壊されることと同義であった。  沼井さんら漁業者はアメリカ軍に対し、演習の中止を求め、自治体とともに声を上げた。陳情が聞き入れられ、代わりにえぼし岩の周辺に浮かべたドラム缶を標的にするようになった。今のえぼし岩があるのは沼井さんら地元漁師による陳情のたまものである。  1953年、朝鮮戦争の休戦に伴い、チガサキ・ビーチでの演習の頻度は少なくなったが、原子ロケット砲や、自衛隊高射砲射撃演習場の新たな候補地として挙げられるなど、さまざまな問題が出てきた。これに対し、地元住民の反対と返還運動がさらに強まった。  そして1959年、チガサキ・ビーチは茅ヶ崎海岸として戻ってきた。  「演習の影響というわけではないが、終戦直後と比べ、漁獲量は減った。今では茅ヶ崎で漁業を行っているところも減り、当時ほどの活気はなく、かつての海とは違う」と沼井さんは語る。  それでも、茅ヶ崎の海が今もここにあるのは、地元漁師たちをはじめとした、市民の思いの積み重ねかもしれない。 アメリカ軍接収時、チガサキ・ビーチにはアメリカ兵や戦車が日常的に見られた(アメリカ国立公文書館所蔵) 茅ヶ崎の海岸で当時の説明をする沼井さん 1965年 パシフィックホテル 〜 ブレッド&バター 岩澤 幸矢(さつや)さん 〜 多くの著名人が泊まった 湘南文化の発祥地  1965年、海辺の田舎町、国道134号沿いに、ひときわ異彩を放つホテルが建設された。当時としては珍しい地上11階建て、ホテルの他にボーリング場やビリヤード場、「カバナ」という個室が立ち並ぶプールなどを併設した当時最先端のリゾートホテルだった。芸能人や財界人などから人気を博し、全国から客が詰めかけた。  当時、ホテルでアルバイトしていた兄弟デュオ、ブレッド&バターの兄、岩澤幸矢さんは「パシフィックホテルは湘南文化の発祥地だった。センスが田舎くさくなく、すべてが洗練されていた」と振り返る。  岩澤さんは学生時代、江の島で水難救助員(ライフセーバー)として働いていた。ホテル開業時、プールでの勤務を希望し申し込むも念願かなわず、ルーム係として採用された。「掃除中、部屋の窓から外を見ると、プールで楽しそうに泳ぐ人と、それを見守る水難救助員をうらやましく見ていた。華やかな世界で芸能人や文化人が頻繁に訪れ、何もかもすごかった」  ホテル地下の社長室は水深4mほどの室内プールの底に位置し、社長席の背後がガラス張りになっており、泳いでいる人が見えた。余程の絶景だったのか「成立しない商談はない」といううわさまであったという。  また、ホテルの特徴の一つに全ての部屋ごとに異なるインテリアがあった。創業者である岩倉具憲さんの妻フローレンスさんがコーディネートをし、自然と近代的な建物がうまく調和した空間が広がっていた。「よくフローレンスさんが娘の瑞江さんの手を引いて歩き、自身の仕事観を話す姿が印象的だった。自分のセンスで物事を変えていく姿がとても魅力的に見えていた」と話す。  アルバイトを退職後、岩澤さんは渡米し、本格的にホテルマンを目指した。しかし「好きなことをして生きたい」と歌手の道を歩むことを決意。帰国後、弟の二弓さんとブレッド&バターを結成した。二人が作り出す海や自然を歌った曲はいつしか「湘南サウンド」と呼ばれ、湘南文化を代表するものとなっていた。しかしその頃、湘南で一時代を築いたパシフィックホテルは経営難により倒産していた。  岩澤さんは「あの頃のホテルの精神を受け継ぐ場所を」と歌手活動を休業していた1975年、茅ヶ崎に「わずか9坪のユ ートピア」と呼ばれる「カフェ・ブレッド&バター」を開業した。その場所はパフィックホテルの創業者 岩倉夫妻の住んでいた住居だった。「岩倉さんたちが築いた湘南の文化のカッコよさを広めたかった。音楽仲間やサーファーが集まり、夜な夜なセッションをしていた。植物も人間も一緒に楽しく過ごせる場所だった」と懐かしむ。カフェは4年間営業し、当時の若者たちの支持を集めた。  それから約40年、岩澤さんは今も湘南の魅力を歌で伝えている。今年3月に発売予定のアルバムにも昔の茅ヶ崎を歌った曲があるという。「昔の茅ヶ崎は、いい意味でミックスアップ(ごちゃまぜ)だった。その気質は今も残っていて、ライブのとき茅ヶ崎のお客さんのノリは全く違う」と笑顔を見せた。  取材後、岩澤さんとホテルの跡地を訪れた。マンション「パシフィックガーデン茅ヶ崎」になった場所の前で感慨深げな岩澤さんの瞳には、あの日のきらびやかにそびえ立つパシフィックホテルが映っていたのかもしれない。 巨大なプールと11階建ての建物は当時異彩を放っていた(岩倉瑞江さん提供) 現在はマンションとなったホテル跡地の前で当時を懐かしむ岩澤さん 2000年 サザンオールスターズ茅ヶ崎ライブ 〜 丸山 孝明さん 〜 市民が支えた奇跡のライブ  2000年8月19日、茅ヶ崎は熱気に包まれていた。駅には「お帰りなさい 桑田佳祐」の横断幕が掲げられ、茅ヶ崎野球場への道は人で埋め尽くされた。チケットを持っていないファンたち1万人も全国から茅ヶ崎に押し寄せた。17時過ぎ、「希望の轍」の軽快なイントロでかつてない大規模な野外ライブが幕を開けた。そのころ、市民ボランティアとして支える湘南祭実行委員会で苦情ボランティア総括を担当していた丸山孝明さんは周辺の住民への苦情対応のため、無我夢中で自転車をこいでいた。  茅ヶ崎市出身の桑田佳祐さんがボーカルを務めるサザンオールスターズが行ったこのライブは、2日間で約4万6000人を動員。そのライブを支えたのは茅ヶ崎市民だった。  きっかけは1999年の年末ライブ。桑田さんが茅ヶ崎でのライブ開催へ意欲的な発言をし、その言葉は市民を動かした。地元商店会などが中心となり、茅ケ崎駅などでライブ開催を求める署名運動が始められ、2か月間で集まった約5万人の署名が市へ提出された。市は桑田さんが少年時代野球をしていた市営野球場での開催を実現するため、協力。市民の思いは届き、開催が決定した。  実行委員会の主な業務は倍率10倍を超えた市民枠1万300 0人分の抽選と、会場周辺の対応だった。「抽選はフェアでなくてはならない」という実行委員長の発言どおり、厳選に行われた。重複応募は失格となるため、全てのはがきを地道に住所で振り分けた。「せっかくの応募、死に票にはしたくなかった。本当にみんな見たがっていた」と当時の思いを語る。一軒の家から100通を超える応募もあったという。当時の添田市長も応募したものの抽選で外れていた。  丸山さんは3日前に急きょ、苦情ボランティア総括担当に代わった。それから人数が足りないボランティアの確保に奔走した。「片っ端から『仲間を呼んでくれ』と電話した。急な話なのにみんな関われることに喜んでいた」。ライブ当日、野球場の周辺は、チケットを持つ人と住民以外は立ち入りを制限され、身分証明書のチェックが行われた。それでも「庭に知らない人がいる」、「庭を荒らされた」という苦情が相次いだ。現場に行くと、知り合いが多く、「『悪いね』と言えば理解してくれた」と多くは好意的だった。  ライブが始まり、野球場からの音が漏れてきた。場内をどこでも入れるオレンジ色のパスを首から下げ、「ライブを見たい」という思いとは逆に苦情対応のため会場からは遠ざかっていった。ライブ終了後、野球場に戻ってきた丸山さんに「またやろうよ、丸ちゃん」と言葉を掛けた桑田さん。疲れ果てていた丸山さんは「これぐらいにしようよ」と即答した。当時を振り返り「後にライブの録画を見て桑田さんが茅ヶ崎への感謝をたくさん語っていたと知った。あんな言い方しなければよかった」と苦笑した。  数万人が集まる規模でありながら、事故もなく誰一人けが人が出なかったことから、主催者から「茅ヶ崎ライブは奇跡のライブだった」と称された。そして、桑田さんからも実行委員会へ感謝の手紙が届いた。「夜通しボランティアが清掃をし、翌日にはごみ一つ落ちていなかったことに『感動した』と書いてあった。みんなが茅ヶ崎に誇りを持ったし、今改めて関われたことをうれしく思う」。祭りのあとから17年、当時の情景は今も丸山さんの心に鮮やかに残っている。 サザンビーチちがさきで行われたパブリックビューイングにも、約6000人の観客が詰めかけた 会場となった野球場で、当時ボランティアがゴミ拾い時に使っていた袋を持つ丸山さん 2014年 ハワイ州ホノルル市・郡との姉妹都市締結 〜 キロハナ・シルヴさん 〜 締結の裏にあった二人の友情  2014年10月24日、ホノルル市庁舎に隣接するミッション・メモリアル講堂。茅ヶ崎市、ホノルル市・郡の両市長が協定書に調印。茅ヶ崎とホノルルが姉妹都市となった瞬間だった。その傍らで、ホノルル在住のクムフラ(フラダンス指導者)、キロハナ・シルヴさんはその様子を感慨深く見つめていた。「天国のかずこはきっと喜びに満ち溢れている。まさに映画のハッピーエンドのようなシーンだった」と振り返った。キロハナさん、そして日本人のかずこ・セリッグさん。姉妹都市締結の裏には二人の友情があった。  キロハナさんはハワイで生まれ育ち、結婚を機にフランスに渡った。2005年に再びハワイに戻るまで、パリでフラ教室を主宰した。生まれ故郷に戻ったキロハナさんはワールド・インビテーショナル・フラ・フェスティバル(以下ワールド)に携わる中で、かずこさんと出会った。ワールドの創始者ポーリー・ジェニングスさんから、かずこさんが日本でハワイ文化を広げるために大きな仕事をしていると聞いていた。「穏やかだけど、空気を明るくする人だった」と出会いを振り返る。  かずこさんは30歳でハワイ大学に入学し、フラを学ぶ傍ら現地の精神文化が宿るとされるハワイ語を専攻。優秀な成績を収め、現地のクムフラやハワイ語学者から信頼を得ていた。ジェニングスさんはかねてから「フラを通し、ハワイと日本の文化交流の在り方を正したい」との思いがあった。そこで、かずこさんに白羽の矢が立ち、日本でのワールドのプロデューサーに任命された。キロハナさんとかずこさんはハワイ文化を海外に知ってもらうために、共に支え合い、刺激し合う関係だった。  しかし、その矢先、かずこさんの体に病魔が襲い掛かった。治療のため、日本に帰国したかずこさんは、病に侵されながらも、日本でのワールド開催のため、ハワイ文化に理解のある開催場所探しに奔走した。各地に足を運び、交渉を重ねたが難航。そんなとき偶然、兄の正一さんの友人から茅ヶ崎商工会議所の名刺を見せてもらった。実際に茅ヶ崎を訪れると、観光協会の職員がアロハシャツを着ていたことに驚いたという。そして、茅ヶ崎がハワイ文化を大切にしているまちだと知った。「全く存在を知らなかったのに、最適な場所にたどり着いた。神様のおぼしめしかもしれない」とかずこさんは感じたという。  話は順調に進み、2011年、茅ヶ崎で第1回ワールドを開催し成功に終わった。キロハナさんは「かずこの成し遂げた全てに興奮した」と話す。  翌2012年、キロハナさん、かずこさんらは茅ヶ崎とホノルルのさらなる交流のため、海が特徴の両市が「姉妹ビーチ」となる夢を描いた。そんな折、幸運にもホノルルでホノルル市議会のアーネスト・Y・マーティン議長と会う機会があった。かずこさんは「茅ヶ崎にはオアフ島で有名なチャイナマンズハットとうり二つのえぼし岩がある」と伝えると、マーティン議長はいたく感激。そして「姉妹ビーチではなく、姉妹都市になれたら」と話した。これが一つの転機となり、両市は姉妹都市締結に向け大きく動き始めた。  キロハナさんは2013年のワールドで初めて茅ヶ崎を訪れた。車に積んだサーフボード、アロハシャツを着た市民、ホノルルに似た光景に衝撃を受けた。「茅ヶ崎は日本の中でハワイを最も感じた。フライベントを行うのにこれほど最適なまちはない」と直感した。  その後も、二人は民間人の立場で姉妹都市締結に尽力するも、同年11月8日、かずこさんは志半ばにしてこの世を去った。「知らせを受けたとき、胸が張り裂ける思いだった。でも、かずこのために前を向き、姉妹都市締結のために動き続けよう」とキロハナさんは決心した。  キロハナさんはかずこさんの想いを実現するためホノルル市・郡の関係者に掛け合い続けた。縁もゆかりもなかった茅ヶ崎へいつしか大きな愛着が生まれていた。「茅ヶ崎のみなさんがハワイへの愛に溢れていたこと、私が見てきたことを伝え続けた」。両市は、継続的な交渉を進め2014年10月姉妹都市となった。  そして、姉妹都市締結後、初めての開催となったワールドは、かずこさんのハワイアンネームの「マカナオカラニ(天からの贈り物)」にちなみマカナ・フラ・フェスティバルに名称を変更。キロハナさんも年に一度来日し、ワークショップを通し、茅ヶ崎との交流を続けている。「私は茅ヶ崎のみなさんに強い絆を感じている。かずこのレガシーを守り、文化交流を続けていくことが私の夢」。キロハナさんの夢は海を越え、続けられていく。 姉妹都市締結の調印をした服部市長(左から3人目)、ホノルル市・郡コールドウェル市長(左から2人目) 固い絆で結ばれていたキロハナさん(左)とかずこさん