提携経緯

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ページ番号 C1007357  更新日  令和5年10月24日

岡崎城

提携市 愛知県岡崎市
人口 383,646人(令和5年10月1日現在)
面積 387.20平方キロメートル
市制施行 大正5年7月1日
提携年月日 昭和58年7月1日


岡崎市のさまざまな表情をお届けしています

提携に至る経緯

 そもそも大岡家は徳川家直参の三河武士のなかでも、武功の誉れの高い家柄で、家康の父、松平広忠の一字「忠」の字を代々名前に受け継ぐことを許されました。大岡忠政は1590(天正18)年8月、徳川家康の関東移封に従い、翌年5月に相模国の堤村(茅ヶ崎市堤)に380石の知行地を与えられ、陣屋を構え住みつきました。

 忠政は江戸幕府が開かれた後、1611(慶長16)年に亡父忠勝ら家族の霊を弔うため、村内に浄見寺を創建しましたが、ここが後年大岡家一族の菩提寺となりました。ちなみに、浄見寺の寺号は忠勝の法名です。

 忠政には3人の男子があり長男忠行が堤村の知行地を受け継ぎましたが、次男忠世が大曲村(寒川町大曲)を、三男忠吉が高田村(茅ヶ崎市高田)を与えられ分家し、旗本になりました。これより、堤村領主忠行家が本家となりましたが、忠吉の孫忠高の四男に生まれた忠相は、10歳で忠世の子忠真の養子に迎えられ24歳で大曲村の領主となりました。26歳で幕府に出仕した忠相は、36歳のときに幕府から伊勢山田奉行に任ぜられ、伊勢神宮の警護、伊勢・志摩両国の幕府領の支配にあたりました。その任期中に、阿漕ヶ浦で不法に漁をしていた若き吉宗(当時の和歌山藩主)を逮捕し、権力に屈せず公正な態度を貫いたことが吉宗の心に留まったという言い伝えがあります。

 7代将軍家継の治世のとき、40歳にて普請奉行を命じられました。1716(享保元)年、忠相が41歳のとき吉宗が8代将軍となり、翌年、みなさんご存じの江戸町奉行となり越前守に叙任され、以降19年6か月にわたり町奉行職を努めることとなりました。テレビでお馴染みの「大岡裁き」は実際は作り事であったようですが、法体系の整備をはじめ、町火消の組織づくりや瓦葺の奨励などの都市防災を含む都市計画の推進、小石川養生所の建設や飢饉に強い甘藷(さつまいも)栽培の奨励などの農業の振興から庶民生活の安定まで忠相の業績は多岐に及びますが、どれを見ても享保の改革を支えた優れた仕事ぶりとして現在まで語り継がれています。61歳のときに徳川家の祭祀法事、全国の寺社の支配にあたる寺社奉行を拝命し、家禄5920石をいただく大名格となりました。72歳のときには幕府の儀式の際、将軍の側で伝達を行う奏者番を兼務し、西大平(愛知県岡崎市)に4080石を加増されその地に陣屋を構え、1万石となり譜代大名の仲間入りをしました。これが縁で茅ヶ崎市と岡崎市は「ゆかりのまち」を結ぶこととなったのです。

 その後、1751(寛延4)年75歳のとき、生涯の理解者・保護者であった吉宗の臨終(6月)を見送った後、12月19日忠相もその生涯を閉じ浄見寺に眠っています。

 茅ヶ崎市で行われる大岡越前祭は、大正元年の忠相の贈位(従四位)を記念して、大正2年浄見寺で行われたものが最初で、昭和31年復活第1回大岡祭開催以降、毎年4月に忠相公の偉徳を偲び市をあげて盛大に行われています。

 浄見寺境内の寺林は神奈川県の天然記念物に指定されており、その中でも樹齢300年を越える「お葉つきイチョウ」は葉の上に実がなる珍種(近年は発見されていませんが)として有名です。大岡家の家紋も銀杏の実をあしらったもので「剣輪違(けんわちがい)」と呼ばれています。

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